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第一章 第19話
午前中の外来の診察を終えて、医局に戻ると、山本センセがなれなれしく近寄って来た。
皆は食事休憩だろうか、珍しく医局に他に人は居ない。
「いやぁ、内科の今居教授が激怒したそうだねぇ」
どことなく楽しそうだ。
香川先生の内科医を連れて帰りたいという要望が内科に伝わったらしい。
ここで山本センセのご機嫌を損ねては厄介だ。適当に調子を合わせる。
「それはそうですよ。内科は内科で順番もありますし、香川先生のワガママに付き合っていられないといったところでしょうか。
で、その話は誰から、今居教授に伝わったのです?」
地獄耳の山本センセのことだ。もれなくチェックはしているだろう。
「それが、齋藤先生からなんだよ」
まぁ、それが順当だろうな…と思う。しかし、齋藤医学部長に逆らえる者はこの学部には居ないハズだが…とふと疑問に思う。
「しかし、齋藤先生は医学部長ですよ。そうそう逆らえるとは思いませんが」
山本センセは祐樹が自分に警戒心を抱いていることを知らない。香川先生追い落としの――尤も、それは失敗に終ったが――の同志だと判断したのだろうか、口は軽かった。
「ここだけの話なのだがね」
人も居ないのに、もったいぶって声を潜める。
「前回の医学部長兼病院長選任の時、君も知っているかとは思うが、立候補者は二人居た。1人は齋藤教授で、もう1人は今居教授なんだ。齋藤先生もかなり強引な手を使って…まぁ、この話は詳しくは言えないが…それで結局齋藤先生が医学部長になられた。その時から二人は犬猿の仲だ。表面上は何もなかったかのように振舞ってはいるがね」
祐樹に説明するのが楽しくて仕方がないといった雰囲気に、いささかゲンナリする。
『この話は詳しく言えない』
と山本センセが言うのならば、彼は今居教授の追い落としに一枚も二枚もかんでいたに違いない。多分、表沙汰にしてはまずいことまでも・・・。
「『内科は内科の事情がある。外科で君がどんなことをしても、それは君の勝手だ。だが、ウチの科には口を挟まないで戴きたい』と大層強い口調で今居教授は仰られたそうだよ。香川先生は知っての通り天才肌だ。
しかもウチの教授のポストがなくても別に困るような境遇ではない。お気に入りの内科医に執着するならこの話は流れる」
わざと沈痛そうな口調だが、内心は会心の笑みを浮かべているに違いないと思わせる雰囲気だ。
「そうですか…。それは目が離せませんね」
今の今まで香川先生には嫉妬の念を抱いていたのに、一抹の寂しさを覚える。自分の心の動きに、自分でもぎょっとした。
――あの先生の的確で無駄のない、しなやかな手術を肉眼で見たかったな――
と心の片隅で思ってしまっていた。
内線電話の呼び出し音が鳴り、立場上、祐樹が受話器を取る。山本センセは目上の人間だ。
「齋藤だが、山本君は居るかね。良いことを思いついたので来て欲しいと伝言してくれたまえ」
そう告げる齋藤医学部長の声は明るかった。
山本センセに用件を伝え、彼が足早に医局を出る。
――さて、齋藤先生はどんな妙手を思いついたのか――
それが気に掛かった。
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