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第一章 第20話

 午後の診察は滞りなく終わった。  香川先生の招聘が殆ど決定事項に終った今となっては、祐樹の「医局員の真意を探る」という目的は無くなってしまったのだが、勤務のシフト表は事前の決定事項なので夜勤は入っていないままだ。  医局内はざわざわとしている。これから夜勤に入る者、論文を仕上げるために徹夜の覚悟を決めた者が気分転換にお喋りをしている者、それぞれだった。 ――久しぶりに「グレイス」にでも行くかな――  そう思っていた時だった。  ちなみに、以前トラブルを起こしたアキさんは、同じようなトラブルを他の客とも起こしたそうで、オーナーから出入り禁止を言い渡されたそうだ。なので、行くことには何の躊躇いはない。元々、「グレイス」はゲイ同士の社交場といった趣きが強い。もちろん、店で知り合い意気投合して他の場所でデートするカップルはたくさん居ると聞いて居るが…  常連客は自分の性癖を認められて気兼ねのない会話を楽しみに通っている人が多い。それ以上に発展するカップルも居ることは居るが、会話のみという顧客も多い。常連ともなると、職業などは自ずから分かるようになっている。そして噂も早い。  ただ、祐樹は「グレイス」で会社員と名乗っている。もし、特定の1人とそういう関係になってしまい、恋人として付き合うと「ただの会社員」では有り得ない勤務シフトや病院からの呼び出しが有るので、その恋人には職業がばれるだろう。上手くいっているウチは良いが、こちらから振ってしまうと、本当の職業などは常連客には筒抜けになってしまう危惧が有る。  そう考えると、特定の人と付き合うのは得策ではないので、あくまでも常連として世間一般の常識では認められない話を楽しむ程度にしている。  少し気晴らしをして来るか・・・。  そう思って、医局の自分のデスクを片付けているところに山本センセが下を向いて入って来た。 「お疲れ様です」  祐樹が声をかけると顔を上げた。明らかに無理をしていると分かる笑顔で皆に向かって「ご苦労さん」  誰に向かってでもなく、そう答えた。 ――診察や手術で忘れていたが、朝の話はどうなったのだろう。齋藤教授の話とは?――  そう思ってしまうが、まさかここで聞くわけにはいかない。  山本センセは医局を見回して祐樹に目を留めると手招いた。 「君、今日は夜勤入っていないハズだな。呑みに付き合いたまえ」  山本センセは確かに祐樹の上司だが、教授のような口振りが何となく不快だった。しかし、内心はおくびにも出さず、笑顔で了承した。  連れて行かれたのは京都でも有数のホテルのバーだった。地下に有るが、ガラスの向こうには川が見える。バーデンとも顔見知りらしく、うやうやしげな挨拶を受ける。 「ボトルをキープしてあるのだが、それで良いかね」  病院からホテルまでタクシーを使ったのだが、山本センセの顔色は冴えなかった。敢えて質問するのも悪い気がしたので車内では他愛のない世間話をしていた。  ボーイが運んで来たボトルを見るとバランタインの30年モノだった。ホテルの価格は一般のスナックなどよりも高めに設定されている。このボトルキープはかなり高くつくに違いない。ふと、山本センセは裕福な開業医の息子だったな…と思い出す。 「このバーはおつまみ程度しか出さないが、隣の中華料理店から料理を運んでくれる。好きにオーダーしたまえ」 「はい、では、先生のご相伴に預からせて頂きます」  そう言って、ボーイがグラスにバランタインを注ぐと、隣の中華料理店のメニューを山本センセに手渡した。  山本は適当に料理を注文すると、ボーイを下がらせ憤懣やるかたないといった感じで話し出した。このバーは席と席との間隔が広いので密談にはもってこいだった。 「齋藤先生は、どうしても香川先生を諦め切れなくて向こうの条件を呑んだとのことだ。内科で受け入れが不可能なら、外科の我が医局に内科医を抱え込むという離れ業をする。日本では、医師免許があればどの科でも勤務出来る点を逆手に取った。  しかもだ、医局内である程度の地位をその内科医に与えるという条件だ。助手もその中に含まれるだろう…准教授かもしれないが」  それで顔色が冴えなかったのかと思う。山本センセが助手から降格することも有り得るのだから。 「しかし、香川先生の信頼する内科医はアメリカ人ではないのですか?」  向こうでの活躍が華々しいのでそう思い込んでいたのだが。アメリカの医師免許を持っていても日本では通用しない。 「それが…日本人だ。香川先生と同様に、アメリカに渡って診察と研究をしていた。そして香川先生に心酔して彼の専属といった形になったらしい。だから、日本の医師免許も持っているから問題はない。我が大学病院で『外科医』として働く分に差し障りはない。実質的に内科の仕事をするにせよ」  そう言って、バランタインをビールのように喉に流し込んだ。

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