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第三章 第3話
香川教授の仄かにアルコールの甘い匂いのする熱い吐息を耳元で感じる。
彼の酔った姿を見るのは初めてだったが、酔った人間は口数が多くなりがちだ。京都から大阪までの道中で今まで疑問に思ったことを少しでも聞きたいと思った。が、運転手の耳もある。どう質問すれば無難になるか思案してしまう。
質問してきたのは香川教授の方だった。絡めた指の力を強くして耳元で囁かれた。この体勢では、彼は囁き声で通じるが、祐樹が質問するとなると普通の声で話さなくてはならない。素面の祐樹はやはり運転手への遠慮もあった。
「今、付き合っている人は居ないのは本当だな?」
アメリカ帰りの彼らしく、語尾は上げて疑問文的に発音しているが、何となく断定形のような口調だった。
率直に答えても良かったが、やはりわだかまりは有った。
「どうして、そう思うのですか?」
逆に質問してみる。
「一つは『グレイス』で聞いてみた。皆が祐樹には特定の相手は居ないと言う。しかも他のバーには行ってないことも聞いた」
一つと言うからにはそれ以上の確信があるのだろう。だが、それを確かめるために「グレイス」に行くという行動は理解し難い。
「そのためだけに『グレイス』に行ったのですか」
からめ手から攻めてみた。
「……一番の目的は祐樹に相手が居ないことを確認することだったが……二番目の目的は、チームが上手く行ってないためのうさ晴らしだった……」
確認とは…?それ以前に何か自分に彼氏が居ないことが分かっているという前提があってのことだろう。一体それは何かという疑問がわいてくる。
自分は長岡先生という申し分のない婚約者が居て、何故自分のことがそんなに気になるのだろうか?しかもホテルに誘ったのは香川教授の意向が強い。婚約者が居て、男を誘う気持ちが分からない。
ただ、運転手の耳の存在を気にしてしまい、長岡先生のことは切り出せなかった。ホテルの部屋で二人っきりになった時にゆっくりと聞きだしてやろうと心に決めた。
そういえば、呼称が「祐樹」といつの間にか変化している。アメリカでは普通のことだろうが、ここは日本だ。これも不思議な現象だ。
「何故、今付き合っている人が居ないと分かったのですか?」
肩口に埋めていた顔を離して香川教授は上気し、いつもより更に色っぽい顔で微笑んだ。
――そういえば彼に微笑まれたことはなかったな――
そう思う。酔っているせいもあるだろうが、いつもの平静な顔とは違う壮絶な色気がある。酔っているので感情のタガが外れたのだろうか。
白皙の顔が上品な紅色に染まっている。走っているタクシーが街灯などで照らされる時にはっきり分かる。
「救急外来に手伝いに行くことを命じた時、そんなに抵抗しなかった。もし、付き合っている人間が居たなら、頑として断っただろうし…。それ以後の勤務状況を見たところ毎日夜勤をこなしている。付き合っている人が居たらどこかで休みを取るハズだと思った…」
上司である香川教授の元には自分の勤務状態は調べればすぐに分かるシステムだ。そういえば救急外来に助っ人として参加するように命じられてから一日たりとも休まなかった。
そこで分かったのか…と思う。あまりにも意外な言葉に絶句していると、アルコールの作用のせいか、いつもよりも紅く色づいた唇の口角が微笑の形を作る。
「救急外来に行くように命じたのは、もしかして付き合っている人が居たときのための保険の積りだった。ほとんど24時間職場に居る人間と付き合えるような人間は居ないと踏んでいた。
そんな勤務状態でも理解を示すような出来た恋人が居たら、それはそれで潔く諦めようと思っていた…」
「つまり、緊急外来に行けという命令はそのためだけに?」
予想外の答えに唖然とした。
「まぁ、それもある…が、一石二鳥を狙っていた。学部に居た頃、祐樹のメス捌きは素晴らしかった。この職場に招聘された時、祐樹のポジションはもっと上がっているものと思っていたら、この国の制度のせいでメスも握れない環境に居ると分かった。いくら才能が有っても実技が伴わないと上達はしない。だからメスが握れる環境に居て欲しかったというのが二番目の理由…」
語尾が掠れたかと思うと、香川教授は祐樹に身体と指を密着させて寝てしまったようだった。
まだ、釈然としない部分は多かったが、大阪に着くまでは寝かせておこうと思った。
香川教授は実は祐樹のために動いていることが分かって、しかも自分に執心しているという衝撃の事実を打ち明けられると、長岡先生の件は何かの間違いではなかったのかと思ってしまう。
規則正しい寝息を零す香川教授を少しでも休ませてやりたいという仏心さえ浮かんで来る。
香川教授のスーツからは嗅ぎ慣れた消毒薬の匂いと共に彼の香りが漂ってくる。酔って体温が上昇しているのか、彼の清潔な香りも好ましい。
もたれかかった体重も告白を聞いた後では、いっそ心地良かった。
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