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第三章 第4話

 アルコール摂取が理由の睡眠は眠りが浅い。大阪に着くまでは眠り続けているかどうかは分からない。  香川教授の行動は公私混同ではないかと思ったが(職務規定違反にすらなる可能性がある…まあ、自分が病院長に訴えなければそういうことは表沙汰にはならないが)  深夜近いので、何も指示していないのに運転手は高速を使っていないようだ。時々信号で止まる。  運転手は話好きのようだった。 「こんな時間に京都から大阪の梅田のホテルに行くなんて、珍しいですね」  隣で安らかな寝息を立てている香川教授のことはバックミラーで確認し祐樹が退屈しているのだろうと思って話しかけてきたのだろう。  彼の寝息としなやかな指先の熱さをどこか心地よく感じながら、この質問にはどう答えていいのか迷う。 「それが…京都で仕事をこなして、ツイ呑みに行ったら運のつきでした。明日の朝は大阪で勤務ですので、もうこの際大阪に泊ろうかという話になりまして」 「バリバリ働いているんですね。あんな高級ホテルにそのような理由で泊れるからには…」  心底驚いた口調で言われたが、そこには侮蔑のようなマイナスの感情が入っておらず、ただ単に感嘆したといった感じだった。 ――明日の朝、勤務時間に間に合うように京都に帰るのは至難の技だな。しかも、教授がこのまま寝入って朝まで起きないならともかく、起きるだろうから、当然そういう展開になるわけで、睡眠時間はないかも知れない――  明日のことを考えるとげんなりするが、あんな告白をされて(といっても、長岡先生という婚約者が居る人間に手を出していいものかと思うが、香川教授にはまだ含むところがないわけではない)性格はともかく外見はストライクゾーンど真ん中な据え膳は食べるのが普通だろうと思い返す。  車内に静寂が満ちた時、隣で身動きする気配がした。どうやら起きたらしい。 「ゆ……田中君、これは…」  呼称が少し変わっていることから、どうやら酔いもかなり覚めたらしい。 ――まさか、全部忘れたわけではないだろうな――  酔っ払いの記憶は酔いが覚めた後で、全く覚えていないこともある。  運転手をはばかり、耳元で囁く。 「『グレイス』で会いましたよね。その後、『好きにしてもいい』と仰ったのは教授ですが…覚えていらっしゃいませんか?」 「……断片的に覚えている……」  呆然としたように呟いた香川教授に笑いを誘われた。 「では、承知の上ということで宜しいでしょうか?」  そう言うと、彼は耳元を更に紅く染めた。そして、握ったままの指を慌ててほどき、聞こえるか聞こえないかのギリギリの音量の声で言った。その口調は祐樹が散々聞かされたものだった。 「私を満足させる自信があるなら…な」  その言葉にいつもと違う感情がわいてくる。絶対満足させてやろうという闘志だった。  車がホテルに着き、フロントへと向かう。 「クラブ・フロアに泊りたいので、チェックインはそちらでお願いします」  祐樹がそう言っている時、香川教授は他人のようなフリで目立たないように立っていた。  フロント係りの合図に従い、ボーイが急ぎ足でやって来た。 「ご案内致します」  そう言って、二人をエレベーターに乗せ、エレベーターの鍵を操作して34階に止まるようにする。この鍵がないとエレベーターはその階に行けないシステムだ。  扉が開くとと、すぐ右手にデスクがありクラブ・フロアのホテルマンが座っていた。観光客でも、出張客でもないのは一目瞭然のハズだが――何しろ二人とも荷物は持っていない――やはり一流のホテルマンは対応が違う。動じた風もなく礼儀正しく挨拶をするとパソコンの画面を見て言った。 「お二人様でいらっしゃいますね。ツインのお部屋が空いておりますがそちらで宜しいでしょうか」 「はい」 「では宿泊客カードに御名前を頂戴出来ますか」 「1人分でいいですか?」  香川教授の名前をもし知っていたら…との危惧が有った。このホテルは財界人も宿泊する場所で、このフロアは宿泊客に食事や飲み物を振舞うサービスがある。その時スタッフが話し相手を務めることもあると聞いていた。 「はい。お支払はいかがなされますか?」  タクシー代で財布の中身が少し寂しくなっていたので、「カード」と言い出す前に、横に立っていた香川教授が黙ってダイナーズ・カードを差し出した。  感謝の眼差しを送り、宿泊客カードを書く。 「では、客室にご案内致します。朝食は5時から承っておりますので、ご利用お待ちいたしております」  そう言うと、先ほどのボーイが持っていたのと同じような鍵を渡してくれた。が、部屋は36階だ。エレベーターを待つよりも、階段で行く方が早い。デスクから見えている階段を見ていると香川教授も分かったのだろう。さっさと階段へと足を運ぶ。すっかり酔いは抜けたらしい。長岡先生のことを含め、全てを白状させてからコトに及ぶ積りになった。  案内のボーイは断り、香川教授を追い越して鍵に記されたルームナンバーの場所を探した。香川教授は黙って後ろからついてくるが、二人とも無言だった。祐樹はこれからどうやって酔いの抜けた彼の本音を聞き出すかという段取りで頭が一杯になっていた。  香川教授が黙っているのは何故だろうとチラリと思ったので、顔を見るといつものポーカーフェイスだった。

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