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第三章 第8話 教授視点

 話は少し遡る。  京都から大阪へ向かうタクシーの中で、実は自分は寝た降りをしていただけだった。  酔っ払っていたことは事実だが、元来アルコールに強い自分はあれしきのアルコールでは口が軽くはならない。ちなみにどんなに飲んでも二日酔いを経験したことはない。  祐樹が「酔っ払い」だと思い込んでいるのを利用して自分の心情を吐露しただけだ。祐樹は自分が酔って体を凭せ掛けたり、指を絡めさせたりしていると思っているだろうが、実は違った。  これは学生時代からずっと自分が熱望してきたことなのだ。  自分が男性しか愛せないという性癖のせいで、あまり人付き合いもせず、好きだったのは勉強だけだった。父は早く亡くなり、母がパートで生活費を稼いでいる環境に育った自分だった。そんな疲れ切った母が笑顔を見せるのは自分が良い成績――模試のこともあれば学校のこともある――を見せた時だけだった。  そんな母を喜ばせたくて――勉強が好きでもあったが――高校二年生まで母の少ない給料で乗り切っていたが、これまでの無理が祟ったのだろう。母が狭心症と診断された。  幸い命には別状なかったのが幸いだったが父が亡くなった家の大黒柱の母が倒れてしまっては大学進学も覚束ない。    母の治療費を考えると、今までのように聡は勉強三昧というわけには行かないだろう。   アルバイトをして高校を卒業しそれから就職しようと考えていた。  ところがある日、母の見舞いのために私立病院に行くと、看護婦(当時の呼称)が、私を呼び止めた。 「お母様のお見舞いが終ったら院長先生が『院長室に来て下さい』って伝言を頼まれたの」  意外なことを聞いた。入院費はまさかのときに積み立てていた保険金で支払っているので督促とは思えない。といっても院長先生が自ら督促するとは思えないが。  どういう用事かは皆目見当も付かなかったが、母の見舞いが終ってから院長室を尋ねた。 「君が香川聡君だね」  50代と思しき恰幅の良い男性が微笑んで迎えてくれた。 「はい。堀◯高校2年の香川聡です。お目にかかれて光栄です」  深深と頭を下げて挨拶した。 「やはり、○川高校の香川君なのだね。実は私の1人娘が同じ学年で○―トルダムの生徒だ。その娘が模試の結果が載っている表を持って帰ってきていてね。いつもS台予備校の全国模試のトップ10に入っている人がこの京都に居るんだと見せてくれていたのだよ。それで名前を覚えてしまった。昨日お母様とお話しをしたのだが、家計は苦しいらしいね…」  院長先生は何を仰りたいのだろう…自分の頭では全く考えられない。 「S台模試でトップ10の常連だったら医学部は充分圏内だ。そこで、大学卒業までは、学費と生活費、そしてお母様の入院費全てこちらで持つ。その代わり、娘と結婚してこの病院を継いでくれることが条件だ」  思いも寄らなかった提案に、今まで大学進学は諦めていた聡に一筋の光明が射し込んで来た思いだった。ただ、条件がお嬢様と結婚するというのは、考慮の余地はあったが。  物心ついてから好きになるのは決まって同性だった。 「お嬢様はどう考えてらっしゃるのですか?」  尋ねてみる。お嬢様の気が乗らなかったらそれでこの話は終わりを告げる。 「先日、君がお母様のお見舞いに来た時、娘は君のことを見ている。君さえ良ければ援助してやってくれと言っている。君に進学の意思があればなのだが、こんな秀才を経済問題だけで学歴なしにするのは実に勿体ない話だ。娘は親の身びいきかも知れないが性格も顔も良いと思うのだが」  そう言って、見せてくれた写真のお嬢様は親御さんの身びいきではなく客観的には美人だった。それに何より、進学の夢がついえてしまわないことに魅力があった。 「分かりました。医学部合格のため全力を尽くします」  もともと、医学部には進学したかったのだが、金銭的なことで諦めていた。それが叶うのだから…。  結婚相手を今から決められるのは少し抵抗は有ったが仕方のないことだと割り切った。  本当にそのお嬢様を愛せるかどうかは相当不安だったのだが。  それに病気の母の入院で予想外に出費が増えている今、有り難い申し出であることには違いない。  お嬢様のことは愛するように努力しよう。  人生経験の乏しかった時には、そんな無謀な決意をしたものだと、今は笑うしかない過去の話だった。

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