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第三章 第10話 教授視点

 身長は自分よりも少し高いくらいだろうか。通学してきた医学部の学生は全員医学部のエリアに入るわけで、自分の前を歩く彼の後姿を追って行くことはたやすい。  時折、顔を横に向けて友達らしい学生と話している。その瞳の屈託無い輝きと、一見冷たそうに見える彼の顔だが、笑うと意外なほど愛嬌が零れる。  聡の大学、特に医学部は学部内でもれっきとしたヒエラルキーが存在する。   成績の順ではなく、育って来た環境によるものだ。  一番目立つのは親御さんがこの大学出身の開業医の子女だ。幼稚園・小学校・中学校・高校と私立に通い、塾や家庭教師を厳選して付けて貰い、しかも子供の頃から高級なレストランや高級ブランドを惜しげもなく与えられ、両親も大学合格祝いに高級外車、といっても聡に分かるのはベンツくらいだったが――を与えられ、通学用に車を使い学校の傍の駐車場に月極めで停めているグループだ。  そして、自分の属するヒエラルキーは「勉強は出来るが、家庭はいたって普通の家」出身者だ。こちらの方は勉強しかしていないためあまり友人を作るのも苦手な人間が多い。  自分もそうだった。同性に惹かれる性癖はかなりマイノリティに属するので未だに女性と上手く話しも出来ない。  しかも自分は言わば「他人のお情け」でこのキャンパスに通っているという引け目がある。成績がいくら良くても友達を作って、深い話をするのは憚られた。  前を行く彼は、にこやかに女子とも喋っている。きっと恵まれた環境で大切に育てられたのだな…と思う。  他人に対して距離を置く自分としては眩い存在だったが、何故か目が離せない。時々漏れ聞こえてくる会話も機知に富んで彼の聡明さも良く分かる。    名前を知りたい…。  そう思ったのは彼が初めてだった。それまでは高校の同級生で好感を持つ男性が居てもそこまでは思わなかった。  それからは、大学に行くのが更に楽しくなった。今日は彼を見られるだろうか?と朝起きてまず一番に考えた。  といっても、話しかける勇気はなく、ただそっと見詰めているだけだったが。  それでも、いやそれだけでも幸せな気分になった。この校舎のどこかに彼が居ると思うだけですら。  救急外来のお手伝い――これはお世話になった院長先生のお嬢様が本当に適切な治療を受けて亡くなったのかを確かめるために自分は自分は北教授に願い出て許可を貰った上で通っていたのだが、現場で適切な対応を取っている阿部師長の姿を見ると、お嬢様の死は彼女の運命だったと納得することが出来た。――を終えて流石に疲れた聡は本来の医学部生が使用している区画に戻った。   解剖室に明かりが灯っていた。何気なく覗き込むと「彼」が真剣に解剖している場面だった。集中しているようで、多分こちらには気付かれないだろうとは思ったが、何かの拍子に顔を上げることもあるかもしれないと、そっと覗き込んでしまっていた。  いつもの快活そうな様子はナリをひそめ、真剣に、丁寧に解剖に取り組んでいた。その怜悧そうな眼差しは友達と話しているよりも真面目で真摯だった。  しかも、手際が物凄く良い。救急治療室で見る医師免許を持った医師よりもメス捌きは上手いと思った。――天分だろうか――  今思えば、解剖室に入って褒めればいいと思えるが、解剖に取り組む彼を邪魔してはならないと思えるような静謐な雰囲気だった。  その後も大学で彼の姿を無意識に探している自分に気付いた。男女問わず友達は多いようだった。  そんな行き場のない気持ちを抱えたまま、月日だけがいたずらに過ぎていった。自分の専攻している心臓外科の新入生が入ってきたので、「新歓コンパ」が行われた。会場である某居酒屋チェーンの入り口に行くと、彼が居た。やはりその存在感は一際目立っているように思えた。 ――よりによって同じ専攻か――  嬉しい気持ちがこみ上げるが、話しかけることは出来なかった。先輩に当るわけなので話しても全く問題はないのだが、今まで人と深く交わったことがない自分は何を話して良いのかも分からない。  しかも、自分は同性に惹かれる性質を持つ。充分彼に惹かれている自覚はあったが、彼はどう見ても異性を恋愛対象にするタイプだろう。  下心を持って彼に接するのはどうしても出来なかった。  幹事に「急用が出来たので欠席する」とメールを打つと居酒屋を後にした。  その後、その新入生の名前は「田中祐樹」だと幹事に教えて貰った。  名前を知ったことで少しだけだが、彼に近づけたような気がした。  が、相変わらず彼の存在を感じると、彼の視界には入らないように努力して彼を見続けた。見詰めているのが絶対気付かれないように。  他の友達が聡の行動を不審に思っているのは分かっていたが、それよりも「田中祐樹」という人間が笑っているのを見ると自分まで幸せになるような気がした。  話しかけるタイミングも考えていたが、どうやって話していいのか分からない。それに先輩と後輩という関係になっても、不毛なだけのような気がする。  ある時、上村という患者が入院してきた。こういうことには情報が早いナースの話によればゲイバーの経営者らしい。佐々木教授のお供で病室に顔を出し続けていたら、自分の顔をマジマジと見られ、他の人間が聞いていないことを確かめた上でこう言われた。 「先生、これが私の店の住所です。お礼にお酒をご馳走しますから、是非ともお越しください」  ゲイバーという自分と同じ性癖を持つ人間が集まる店の存在は何かで読んだことがあるが、行ったことはない。  いい加減、自分の田中祐樹に対する態度に自分でもイライラしていたため、ある日思い切って行ってみた。  店はすぐに見つけられた。店内に入ると、信じられない光景が展開されていた。  あの田中祐樹が綺麗な男性とテーブルに座っている。しかもその男性は熱っぽい視線で田中祐樹を見詰めている。  二重の衝撃だった。

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