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第三章 第12話 教授視点
佐々木教授の尽力で、4月からアメリカのノーザンクロス病院に受け入れてくれることになった。ただし、医師ではなく――向こうの医師免許を持っていないので当たり前の話だが――手術室スタッフとしての雇用とのことだった。
別に肩書きなどどうでも良かった。環境が激変すればきっとこの気持ちも薄らぐだろうと思っていた。
大学には通っていたが、相変わらず田中祐樹の姿を遠目でしか見られない。今となっては複雑な感情が顔に出ない可能性が高いのでなおさら。
とはいえ、自分が逃げ出した新歓コンパで自分の友人が田中祐樹と知り合いになった。その件はもちろん新歓コンパの後で知らされたのだが。
その友人――柏木と言ったが――と歩いているとたまたま二人に向かって歩いてくる田中祐樹の姿を見つけた。
人間、そういう意味で意識すると意識しない人間よりも早く見つけ出す感覚が研ぎ澄まされてしまうのだろうか。
「あ、先に行っててくれ。用事を思い出した」
そう言って柏木の返事も聞かず走り出した。
もうこれで会えないかも知れないとは思っていたので、彼の賢そうな瞳や整った鼻梁や引き締まった唇などを脳裏に刻み付けてから。小走りになりながらも意識は彼に向いていた。気付かれないように…そっと。
背中に目がついていればどんなにいいだろうかとフト思った。これが最後の別れになるかもしれない。後ろ髪を引かれるというのはこのことを言うのだろうかと思っていた。
渡米のことも大学の友人――というか知人――誰にも話さなかった。それを話すと自慢話に聞こえそうだし、何よりも自分が何故いきなりアメリカに行くかの本当の理由を話すわけにはいかない以上、ウソをつくのが嫌だったからだ。
数少ない友人は自分が大学に残るものと思いこんでいるようだった。
唯一知らせた元婚約者の院長夫妻が関西国際空港まで来てくれた。院長は我がことのように喜んでくれ、夫人は涙を浮かべて出発を見送ってくれた。
院長先生には事前に報告に行ったが、その時に激励の言葉と共に、しばらくは医師として活躍するのは無理だろうから今まで通り送金させて欲しいとの強い要望が有った。
心苦しかったが結局院長先生の厚意に甘える形となった。
アメリカ行きの飛行機に乗った。ノーザンクロス病院はLAにあり、専門は心臓外科だった。
アメリカは脳死患者からの臓器移植の数こそ日本よりも多いが、やはり拒絶反応のリスクが高く――といっても、心臓移植を専門としている病院もある――ノーザンクロスは心臓バイパス術の技術の高さに定評のある病院だと聞いている。
LAは何故かは知らないが、同性愛者に対する偏見がアメリカ一少ない。そういう性癖を持った人間がカムアウトしても政治家でも力量さえあればトップに就ける土地柄だと日本の週刊誌に書いてあった。日本ではまだまだ日陰者だがLAでは違うらしい。
部屋を探したり、生活必需品を買い込んだり――これも院長先生が「餞別」として包んで下さったお金で賄った。
それらの雑用が済んだ後、いよいよノーザンクロスで働くことになった。
と言っても医師ではないので病院長などのお偉いさんに会うことは無かったが、直接の上司となるマイケル・ゴールドスミス博士には挨拶に行った。
彼はいかにも多忙な外科医らしく挨拶は短かったが秘書を呼んでスタッフに紹介するようにと命じてから忙しそうに部屋を出た。ゴールドスミス博士はバイパス術の世界的権威だ。論文の数こそ少ないが、その手技は世界一との評判だ。
もっとも、研究医とは違い臨床医は論文の数が少ないのは当たり前の話で、患者の命を救うために手術を始めなすべきことは山ほどある。執筆に時間は割けないのだ。
佐々木教授から話を受けた時、自分の語学力…特に医学の専門用語…に不安を覚えたので、秘書に頼んでゴールドスミス博士のスタッフにまず紹介してもらうことにする。
「君が日本から来たスタッフかい?」
秘書に伴われてスタッフの控え室に入ると自己紹介もまだしていないのに親しげに声をかけてくれた医師がいた。
日系人らしいが快活さはやはりアメリカ人だなと思った。
「初めましてサトシ・カガワです。どうか宜しくご指導ください」
「俺は、ケン・スティーブンだ。内科医だ」
「内科医なのにこちらで働いているんですか」
「こちらでは内科医と外科医と麻酔医は普通チームを作る。外科的手術をする場合でも、内科の領域で患者のコンディションを万全にしなければならないからな。麻酔医は手術の時にその患者に合った麻酔の量だけをその患者に合わせて処方するのさ」
日本とは全く違ったシステムだが、効果的かつ合理的だと感心した。
色々なスタッフが皆笑顔で迎えてくれ、自己紹介を済ませると皆の会話を邪魔せずに聞いていた。
どのくらい自分にヒアリング能力があるかを試すために。
日本でも医学部の論文は英語で書くことが多い。専門用語ももちろん英語だ。調べる時に大学受験の時の習性が癖になってしまったのか、発音も覚えてしまっていた。
それが役に立ったのか、自分を抜きにして専門用語で話すスタッフの会話の八割は理解出来た。理解出来たので自分も議論の輪の中に入って行った。――こんなに積極的になったのは生まれて初めてだ――と思った。やはり、皆の性格がオープンに感じられるのでそうなったのだろうか…。
その時、ゴールドスミス博士が入って来た。日本では考えられない光景だったが。
上司でも部下の溜まり場に普通に入ってくるらしい。他のスタッフは驚いた様子がない点から判断出来た。
そこでまた議論が始まる。自分の思うところを述べていると、博士は興味深そうに聞いていた。
次の日、出勤して驚いた。手術スタッフの中に自分の名前があったので。しばらくは見学かと思っていた。
執刀医はもちろん博士だった。手術着などの着方はケンが教えてくれた。手術はもちろんバイバス術だ。
特に指示がなかったので後方で見学しているとイキナリ声がかかった。
人工心肺が取り外され、患者が蘇生した瞬間の出来事だった。
「サトシ、縫合術をやってみないか」
この国の医師でもないのに…と二の足を踏んだが、ここでは博士の発言は絶対らしい。
スタッフは皆、自分のために道を作ってくれていた。
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