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第三章 第24話 教授視点

 しばらく待ってもケンが来ないので、姿勢を変えてソファーの肘掛部分に頭を預けて待つことにした。  廊下に足音が聞こえた。どうやらケンらしい。薬を持って来てくれたのだな…と頭を起こした。  ノックと共にドアが開き、廊下の明かりが入って来る。 「大丈夫か?電気も点けないで?」  心配そうに声を落として話しかけてくる。 「何とか…」  部屋の電気が灯る。ケンは大きな紙包みも持って部屋に入って来た。 「それが頭痛薬と鎮静剤ですか?そんなにたくさん…それほど、重病人?」  近所のベーカリーの紙袋なのを見て取ってから、ケンを心配させまいと明るく言った。 「昼しか食べてないだろう?手術もいつもより時間がかかったし。先に胃に食物を入れてから飲んだ方が良い」 「そうですね。鎮痛剤は胃に悪いですから」 「このベーカリーはとても美味なんだ。しかも売り子はラッキーなことに一番美人なコだった」  頭痛を我慢している自分に遠慮してか低い声で冗談を言いながら目の前にサンドウイッチやべーグルを並べた。カフェオレとミルクも。  1人分にしてはやけに多いな…と思っていると向かい側に腰を下ろしたケンはスターバック◯のラージサイズアイスコーヒーも取り出した。 「ここで夕食を食べてからクラブに行って飛びきりの美女を見つけるつもりだ」  ウインク付きの冗談は、きっと自分の容態を心配してのことだろう。 「きっと、美人がたくさん居ますよ」  そう言って無理に微笑んでいると、サンドイッチの紙包みが丁寧に外されて、目の前に置かれた。 「頂きます」  そう言ってから食べる。多分美味なのだろうが今の自分には分からない。とにかく咀嚼して胃に収める。 「今日の一番の功労者に乾杯」  本当はアルコールを呑みたかったに違いないが、アルコールの匂いは頭痛のする人間に悪影響を及ぼすことを知ってコーヒーにしたに違いない。 「功労者ですか…?」 「そうさ。もし術中死でも起こったらウチの病院の評価に関わる。すると経営にも悪影響を及ぼすからな。特にウチの患者の場合は、なまじ金持ちばかりだから噂は早い。それに余所にもっと実績を上げている病院があると聞けば、どの州にでも出かけていく。患者1人の術死は大きなダメージなんだ。患者は病院や執刀医を選ぶ権利がある。ま、金持ちは特にな」  医療と経営がこれほど密着しているとは思わなかった。聞きたいことはたくさん有ったが、何より身体が辛い。早く自宅に戻って休みたかった。カフェオレにするか、ミルクにするか迷ったが、少しでも胃に優しい方がいいかと思い、ミルクにした。  ミルクを半ばまで飲み干すと、ケンが黙って薬を差し出した。 「これが頭痛薬。強力だが胃はもちろんのこと肝臓や腎臓に負担が掛かるので、こんな事態でなければ飲むな。それと、緊張を解すための鎮静剤。これは今飲んでも構わない。もし、寝付けないようならこちらの睡眠導入剤も渡しておく。これは就寝前に二錠服用すること」 「有り難う。助かります」 「家まで送って行こうか」 「大丈夫だ。ケンはこれからとびきりの美女を見つけに行ってください」  薬剤を飲んでからそう言った。ケンも食べ終わっている。一緒に病院の門まで行って別れた。  LAは日本に比べるとタクシーが安い。奮発してタクシーに乗って帰った。  シャワーを浴びるのもそこそこにベッドに倒れこんだ。頭痛は何とか治まったが、眠気は一向にやって来ない。夕方の手術で緊張したのが原因だろうか?   それとも、初めて男性とそういうことをした興奮だろうか。       やむを得ずケンから貰った睡眠導入剤を飲んで無理やり眠った。  次の朝出勤すると、博士が呼んでいると言われ部屋に向かった。笑顔の博士は挨拶もそこそこに荘厳な感じのする封筒を二通取り出して、執務席から立ち上がり、客用ソファーに座るように促した。 「一通目は、LA医師会に君の医師免許を早く交付させるための脅しの手紙だ。そして二通目は私の出身大学。ま、今でも客員教授として一応在籍はしておるがな…。その博士課程への入学推薦書だ。両方とも多分受理されるハズだ。昨日のようなことが起こると、やはり君がLAの医師免許保持者でないとマズいだろう。博士号は、ま、ハクをつけるための飾りみたいなものだ。論文さえ出せば取得出来るようにしておく」  博士の出身大学と聞いて、宛名の大学名に目を落とす。LAイチの実績と伝統を誇る名門医学大学だった。  それにしても通常の医師免許試験日より早く試験を受けさせてくれる特例があるとは知らなかった。  日本でも無資格で医療行為をしたことはあったが、ほとんど不可抗力だったし今回もそうだ。だが、本来ならば逮捕モノであることは間違いないので有り難く受けることにした。 「病院のご迷惑にならないように博士号を取得出来るように頑張ります。有り難うございました」  それだけ言うと、博士はにんまりと笑った。 「君が正式な医師になれば安心して執刀医として任せられる人間がやっと誕生する。すると、今まで1人でしてきた仕事が二分の一になるのでこちらこそ有り難い」  こんな駆け出しに執刀医うんぬんはこの国の人間特有の冗談だろうと思っていた。  担がれているのではないだろうか?と一抹の不安を抱えて医師免許取得会場に行ったが無愛想な女性が1人自分を待っていて、小部屋に案内するとテスト用紙を取り出し終了時間を告げると出て行った。田中祐樹の顔を思い浮かべてから答案用紙に集中した。  それが終ると、5人の年配で貫禄のある人物――名前は名乗って貰えなかった――が面接をしてくれた。その結果、医師として正式に登録する旨が病院と自宅に郵便で届けられた。  案外簡単なものなのだな…と逆に拍子抜けがしたほどだった。帰る道すがら、田中祐樹は今もあの綺麗な男性と付き合っているのだろうか…とフト思った。  第一助手の仕事は相変わらずだったが、博士の術式で改善すべき点を見つけ出し自分のノートに列挙することを日課にしていた。   博士論文のテーマは、色々興味は有ったが資料を調べる時間もないせいもあって「心臓バイパス術の術式研究と改善点」というありきたりなものになってしまった。  医師免許を取得し、第一助手に相応しい個室を与えられたので、手術の合間を縫って書き上げ続けた。大学院にも時間の許す限りは出席した。  博士号取得を待っていたかのように運命の輪が大きく回りだした。

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