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第四章 第1話 教授視点
休みの日、蓄積した疲労を回復させようと目覚まし時計をかけずに眠っていた。そこに携帯の着信音が響き渡った。
手探りで音源を探す。手に触れた本がベッドサイドのテーブルから落ちた。落ちた本は「経営学大全」経済学者向きに書かれた本だった。
手探りで携帯電話を取り出し、どこからの着信か確かめる。「勤務先」との表示に一気に目が覚めた。
「サトシか?大変だ。博士が…」
ケンの声が緊張をはらんでいた。
「ケン、何があったのですか?」
こんな調子のケンの声を聞くのは初めてで、緊急事態を想定する。パジャマ代わりのTシャツと短パンを脱ぎ捨てて、携帯電話を肩と耳に挟みカッターシャツに着替える。
「術中事故だ。他の医師のメスが博士の右腕の腱を切断してしまった」
「何だって?」
「それで大急ぎでこちらに向かって欲しい」
大急ぎで身なりを整え、タクシーに飛び乗った。
――右腕の腱の切断、外科医に取っては命取りになる――
それを知って、縫合術に優れていると評価される自分に緊急要請をかけたのだろう。しかし、腱切断の場合は、時間との争いになる。早く縫合すればするほど定着率も上がる。他の医師が適切に処理していてくれれば良いと祈っていた。右腕の腱を切断し、手術が成功したとしても、元のレベルの手作業は絶望的だと、どの医学書を見ても書いてある。特にミリ単位を要求される手術は絶望的だろう…
タクシーを急がせながらそう考えていた。博士の容態はどうなのだろうか?
病院に到着し、エントランスをくぐると泣きそうな様子の看護士が居た。
「カガワ博士、お待ちしていました。すぐ手術室へ」
手術室が固まっているエリアには平時と違う緊張感が漂っていた。
「博士は?」
自分の声を聞きつけたケンが小走りにやって来た。
「サトシに手術をして欲しかったのだが、間に合わないということで病院側が他の医師に任せた。そこそこ優秀なヤツだが、サトシには及ばないと踏んでいる。一応マイクロサージェリーではこの病院一の看板を背負っているのだが、サトシの手技には及ばないと踏んでいる」
マイクロサージェリーは微細な血管や腱などを専門的に手術するチームだったが、この病院では心臓バイバス術が売りなので、あまり良い医師が居ないのが現状だった。
「……そうか。しかし、一体何故こんな事態に?」
手術中は雑菌が入るのを恐れて医師といえども迂闊には入れない。日本の大学病院のように上からガラス越しで見る設備もこの病院にはない。
博士は心臓バイパス術の世界的権威だ。当然、執刀医は1人、(つまりメスを握るのも1人ということだ)博士のハズだった。それなのに他にもメスを持った外科医が居たことになる。
ケンが言いづらそうに言葉を紡ぐ。
「ウチは心臓バイパス術の看板を掲げている外科病院だが、他の手術に対応出来ないわけではない。以前、ここの患者だった某往年のハリウッドスターが交通事故に遭った。意識は有ってウチの病院を指名して気絶した。搬入されたその俳優は心臓に肋骨が――といっても3ミリほどだが――突き刺さり、脳挫傷も起こしていた。博士のチームは心臓を、脳の方は別のチームが担当したのだが、ウチの病院ではこういうケースが少ない。それで、脳外科の医師が誤って博士の右手の腱にメスを…」
「腱切断というのは事実なのか」
二人して眉間にシワを寄せて話していた。
「ああ、本当だ」
「それは厳しいな。博士の外科医師生命にも関わる」
自分は日本で救急救命医療室の治療を経験している。熟練した看護師の指示のもとで必死に治療しただけだったが。今思えば、阿部看護師長が大局的に手術の具合を判断し、その指示で医師達のメスが同僚に及ばないようにしていたのではないだろうか。
救急医療室がないこの病院は、もちろんそういった指揮官も居ない。それが、黄金の腕を失う(といっても未だ決まったわけではないが)結果になるかも知れない…。
博士が入っている手術室のドアが横開きになった。一番初めに出て来た医師の表情は暗い。それだけで全てが察せられた。
ケンが近付き、「どうだった?」と親しげに聞く。彼は社交家なので殆どの医師を知って居る。
「残念ながら、裂傷が深すぎて以前のようなご活躍は無理だと…」
その医師も博士がここの看板医師だと知っているのだろう。蒼白な顔でケンに伝えていた。
「意識はあるのですか?」
「いえ、まだ麻酔から覚めてらっしゃいませんから」
「そう…ですか」
何か声をかけたかったが仕方がない。帰ろうとすると、病院長の美人秘書が小走りに聡に向かって来た。
嫣然な微笑を浮かべた彼女は、豊かな胸を必要以上に聡に密着させ、耳元で囁いた。
自分には微笑も胸も全く興味はなかったが。
「お呼びと伺いまして参りました」
博士の第一助手として遠くからは眺めていた病院長は磊落に握手を求めた。
「君の活躍ぶりは有名だ。良く聞いているよ。ところで今夜、不幸な事故があった。ゴールドスミス博士の負傷だが、君も病院内に居たのなら知っているね」
そこへ、先ほどの美人秘書がコーヒーを持って室内に入って来た。
ロイヤル・コペンハーゲンのコーヒーカップでコーヒーを飲みながら、病院長は聡を観察しているような目で見ていた。
「そこでだ、君は博士のもとで第一助手をつつがなく務めている。手技は博士に言わせると、『自分よりも上手だ、ただし経験を積めば』とのことだ。どうだね、博士のリハビリが終るまでは、博士の代理として執刀医を任せたいのだが」
博士のチームのメンバーを思い浮かべる。そこそこ有能だが、(そしてそんなことは口が裂けても言えないが)自分の手技が一番優れているのは分かった。
「……分かりました。博士の容態がはっきりするまでお引受けしましょう」
あからさまに安堵した表情を見せた病院長は、カルテを見せた。
「君も知っての通り、明日アラブの石油王の手術がある。準備は万端だ。明日の13時から手術を始めるので、その時間に間に合うように来てほしい。色々と悩むことも多いと思うが、日本の諺にもあっただろう。『案ずるより産むが如し』」
日本びいきの病院長は――それで聡を雇ってくれたという噂さえある。――間違った諺の引用をして、「頼んだよ」とドアを閉めた。
――執刀医――出来るだろうかと思う。だが、患者が待っている限り自分のベストを尽くすのみだ。
気持ちを落ち着かせるために温めたミルクを飲んでベッドに入ったが、一向に睡魔は訪れない。
眠らなければ…と思うと余計に眠れなくなる。
楽しいことを思い浮かべて気分転換を図ることにする。一番楽しいのは田中祐樹の眩しげな笑顔だ。
その笑顔を脳裏に描いていると今夜の混乱からか、それとも明日からの重圧からか、たまらない気持ちになってきた。性的なことにも淡白でこういう行為も数えるほどしかしたことがなかったが。
恐る恐る、パジャマ代わりにしていた短パンと下着を脱ぎ捨て、ゆっくり扱く。
目を閉じ、「この指は田中祐樹のものだ」と想像すると、瞬く間に難くなった。
「あ、ゆ、ゆうき。ダ・メ」
その言葉と共に絶頂を極める。白濁したものをテッシュで拭き取っていると、眠気がしてきた。この眠気の波に委ねてしまおうと、目を閉じた。
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