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第四章 第2話 教授視点

 普段の時間に起き、出勤用の服に着替えている時も博士の容態が常に気にかかっていた。食欲など全く感じない。  朝食を抜き、病院へと急ぐ。職員用の出入り口で女性に会った。 「お早うございます」  そう声をかけてきたのは、いつか時間外に薬を処方してくれた薬剤師だった。名前は覚え違いでなければ…メアリーだったか。確かそんな名前をケンから聞いたことがある。 「お早うございます。」  挨拶を返していると、メアリーは真剣な表情で聡を見た。 「ゴールドスミス博士のこと聞きました。病院の金看板ですから…。最悪の場合、この病院は倒産するかもって噂されています。でもスティーブン先生は、カガワ先生が居るから大丈夫だって仰ってますが」 「期待に応えるように頑張ります」  そう言って、博士号取得と同時にあてがわれた個室に向かい、白衣に着替える。   手術が入っていなくても9時に出勤すると決めていた。それから症例を分析し、術式を決める。これは博士号を取得するために今までも行ってきたことだが、これからは博士復帰のメドが付くまで理論ではなく実践的に行わなくてはならない。  今日の手術患者の術式について真剣に考えていた。  その時、ドアがノックされた。返答をするとケンだった。 「大変なことになったな。  博士は術後の念の為に打った鎮静剤でまだ眠っている。今日の手術はサトシがするのだろう?」 「ああ、そうなってしままいました」 「それは難題だな…」  ケンは我がことのように眉を顰めた。 「狭窄部分はそんなに難しい箇所ではないはずですが?」 「それはそうなんだが…。  この患者は病院のお得意さんだ。某石油産出国で石油関係の社長をしている。確か王家の血も引いているとかで…プライベートジャンボジェット機を数台持っているという噂だが…信憑性は高い。  それはまぁ我々には関係のない話だが、食餌療法には見向きもしないで、美味を貪り、女性と遊び――両方とも心臓に大変負担が掛かるのはサトシも常識として知っているだろう?――冠動脈に狭窄部分が見つかればバイバス術を受けに来るという患者だ。確か三回目だと思うが」 「三回目?同じ部位にメスを入れるのは三回が限度で、しかもリスクが高いのでは?」  食餌療法で大人しくしていれば一回の手術で大丈夫なのに…といささか呆れた。 「そうだ。三回が限度ってのは我々には常識だが、何せ金払いが桁違いに良いものだから病院は手術を受け入れるさ。四回でも五回でも…な。術死のリスクがなければの話だが…」  この病院の徹底した金儲け主義に疑問を抱いた。 「それはそうと、執刀医に昇格だな。頑張れよ」  答えようとすると机上の電話が鳴った。ケンはそれをシオに部屋から出て行った。  電話は病院長からのものだった。ちなみに彼は医師ではなく純粋な経営者だ。直ぐに部屋まで来るようにとの内容だった。  部屋に行くと、客用の応接セットの席を勧められた。今回もロイヤル・コペンハーゲンのコーヒーカップから香ばしい匂いが立ち上っている。 「困ったことがあってね…」  コーヒーに手を付けずに病院長が言った。 「はい」  自分も仕方なくコーヒーは諦めることにした。 「今日の手術患者に執刀医交代を告げに行くと、『私は博士が執刀してくれるからこの病院を選んだ』と。気を悪くしないで欲しいのだが…『そんな青二才の執刀医に任せられるか』とひどくご立腹の様子だった」 「では、執刀医は別の方に?」  自分の経験が浅いのは自覚しているから特に腹も立たない。 「いや、この病院でサトシ先生の他に適任者は居ない。博士が目覚めて説得してくれればいいのだが、まだまだ覚醒には時間がかかるとのことだ。だから、『博士よりも所要時間を短く、しかも完璧な手術が出来る人材です』と言った。それで納得して貰ったが…出来るハズだよな?」  疑問形で聞いているが、実質は命令だ。  ただ、自室で見ていた資料では、そんなに時間はかからないと踏んでいたので。 「自信は有りませんがやってみます」  そう言って、院長室を辞した。  午前中は部屋に籠もり、術式について周知徹底用の書類を作った。それをスタッフにメールで配布した後、食事を摂りにいった。  まるで味を感じないサンドイッチと今日は神経を使うのでコーヒーに砂糖とミルクを入れて飲んでいた。  術式は頭に叩き込まれている。実際その通りに手が動くかどうかだ。しかも短時間で。イメージトレーニングを兼ねて、出来るかどうか手を動かしてみる。何とか出来そうだった。  博士の方法を踏襲して、術前カンファレンスを手術控え室でする。初めての執刀医なので、反発や術式の反論が出ることを予想して45分前に設定したが、反発も反論もなかった。  余ってしまった15分…手術着に着替えているので外に出ることは不可能だ。イメージトレーニングを入念にし、その後、田中祐樹の太陽のような笑顔を思い出していた。時々そういう顔をしていたこともあったので。それだけで自信が持てた気がした。  時間通りに手術室に入る。壁に掛かっている時計の針を確認し、手術開始を宣言する。  博士の背中から見ていた手術よりも難易度は易しい。注意すべきは過去の手術痕だ。だが幸い、今回の狭窄部分は過去の狭窄部分とは離れている。 「人工心肺停止」  全ての手術が終わり、そう声を掛けた。時計を見ると1時間25分だった。自分でも満足出来る手術だった。技術的にも時間的にも…。  自分のすべきことは完璧に出来たと自負していたが、スタッフの指示出しが上手く出来たかどうかは分からない。  無神論者なので神には祈らないが、何かに縋っていたい時間だ。 「もし、このまま心臓が動かなければ…」という恐怖に駆られる。それは身体の芯から凍えつくような感触だ。  そんな中思い出すのは田中祐樹の顔だった。楽しそうに級友と話している笑顔だった。 「脈、戻りました」  その看護士の声で詰めていた息を吐き出した。田中祐樹の顔が自分に向かって微笑んでいるような錯覚にとらわれていた。 「素晴らしい!カガワ博士の手技は拝見して神が乗り移ったのかと思いましたよ」  第一助手に昇格した医師が興奮を隠しきれないように言ってくれた。回りを見回すと、賞賛の眼差しで見詰められている。  誰からともなく拍手が起こった。  博士の件で皆、ショックを隠しきれないがゆえの、後継者と目される自分への激励の拍手だと思った。

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