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第四章 第3話 教授視点
最も緊張した執刀医第一例が満足すべき結果に終った。博士の手術日程の代行もこれなら行えそうだった。博士論文のために溜めていた資料が役に立つ。
もっと教えて欲しいことはあったが、それはワガママというものだろう。
博士が目を覚ましたので見舞いがてら報告に行った。流石に「もうメスを握れない可能性が高い」ことを知らされた博士の顔は青かったが、自分の手術の様子を聞くと、褒めてくれた。
「ただし、あの患者はもう手術には耐えられないだろうから、そのことは病院長と私でくれぐれも諭して聞かせる」
そう言ってくれた。
博士が戦列を離れたシフトが組まれ、第一助手から執刀医へと格上げになった。手術自体もようやく慣れたと思う頃だった。
聡の病院では毎日ほぼ二例の心臓バイパス術が行われる。聡が関わるのは執刀までで、その後は内科の医師に任される。手術自体は体力と精神力を消耗するが、今のところ失敗はなかった。
「第一例の患者が退院するので私の部屋まで来て欲しい」
病院長の呼び出しが有ったので行ってみると、くだんの患者はおらず何故かイギリス人らしい上品な男性が待っていた。
部屋には病院長とケン、そしてその男性しか居ない。不思議に思っていると、完璧なクイーンズ・イングリッシュで話しかけられた。
「我が主人に完璧な手術を有り難う御座いました。術後もいつもよりも軽かったと大変お喜びで御座います。申し遅れました、私は執事長を務めさせて戴いております」
「いえ、最善を尽くした結果です。それよりも、もう手術は医学の常識として無理だということをお知らせ願えれば幸いです」
「それは、ゴールドスミス博士からも伺いました。主人もその積りでおります。食餌療法のために栄養士を雇いましたので、先生方の手はもう煩わせないと存じます」
そう言って、上質な紙で出来た封筒を取り出した。
「先生方に、主人からのほんの気持ちです。ご査収戴ければ幸いです」
ちらりと病院長を見たが彼も封筒を渡されて頷いている。ケンも至極当然のように受け取っている。
「では遠慮なく頂きます。退院だと伺いましたがもう帰国の途に?」
儀礼的に聞いた。
「はい。ただ、飛行機は心臓に負担が掛かるというので、所有している船で帰国いたします。心臓内科専門の先生も、こちらの病院長様に紹介頂きました」
ジャンボジェットだけではなく船も持っているのか…と思った。さぞかし大きな船なのだろう。
慇懃に挨拶して執事が出て行くと、病院長が労ってくれた。
「カガワ博士も急なオペだったにも関わらず、よく頑張ってくれた。この調子で頼む」
「はい」
そう言ってケンと二人で院長室を出た。
「どうして、アラブの石油王の側近がイギリス人なのですか?」
素朴な疑問をぶつける。ケンは肩を竦めて答えた。
「石油を制する者が世界を制するって聞いたことはあるだろう?あの患者はその中でもトップクラスの金持ちだ。船で帰国と言っていたが、『クイーン・エリザベスⅡ世号』位の大きさの船を自分用に持っているから…それで帰国するのだそうだ。執事だが…別にどの国の人間がなっても変わりはしないと庶民の俺なんかは思うが…。
本当の金持ちのステータス・シンボルとしての執事はあくまでも英国人なのさ。さて、臨時収入も入ったことだし、早いこと手術を済ませて呑みに行こう」
「臨時収入」という言葉で白衣のポケットに入れた封筒を思い出した。
「呑みに行くのは構いませんが、手術が無事終わったら…ですよ」
そう言ってケンと別れ部屋に入った。
開封してみた。中に入っているのは小切手だ。$の後ろに0が何個並んでいるか、一瞬では数えられなかった。
――たとえこれが円建てでも、大盤振る舞いだ――と思える金額に目を丸くした。
いつか、ケンが言った言葉が蘇る。
「心臓バイパス術でウチが一番だという評判があるから、金持ちの患者は集まる。しかし、いったん、その評判が崩れると、連中は気まぐれだ。他の病院に行くだろう」
確かそんなことを言っていた。
入院費ではなく、医師への寸志にこれだけの金額を包める金持ちばかりがこの病院に集まってくるのか…。唖然とした。今まで「お金持ち」と言えば、学費を出してくれていた日本の病院長が一番だと思っていたが、大きな間違いだったことに気付く。
そして、博士が術式を録画しなかったわけも分かった。真似をされたら病院の経営に響くからなのだろう。
日本の大学病院では手術は全て録画してある。それは後進の指導に役立たせるためでもあり、自分の技術力を客観的に見るためのものでも有る。
――少なくとも、手術の録画は進言して受け入れて貰おう――
そう思った。一部の富裕層のための医療だけをして裕福に暮らしたいわけではない。どんな患者でも等しく医療を受ける権利はあるはずだ。食べることに困りさえしなければ、自分はそれで良いと思った。
ケンと呑みに行く約束が出来ていたので、手術の後、私服に着替える。小切手は持っていると落ち着かないので、銀行に行って現金に替えてもらい、そのまま貯金に半分回し、後の半分は投資銀行に任せた。仮に金融商品で損をしても、もともと無かったお金だと思うので諦めはつく。
待ち合わせはいつものクラブではなく、落ち着いたホテルのバーだった。臨時収入があったせいか?と思ったが、乾杯の後、ケンは真剣な顔をして切り出した。
「ずっと延び延びになっていたが、サトシの恋愛の相談に乗るという約束を果たしたいと思っていた。良ければ話してみないか」
茶化す雰囲気はなく、真面目な面持ちのケンに田中祐樹のことを話してみたくなった。
ケンは自分のことをずっと案じてくれていた。それに恋愛の経験値も高そうだ。ゲイという点では自分は特殊だが、恋愛という点では普遍的な悩みだろう。打ち明ける気になった。
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