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第四章 第4話 教授視点

「ケンは私がゲイだということをご存知ですよね?」  一流ホテルのバーは程好い距離に席が分散しており、周囲に聞こえる気遣いはなかったが。それでも声を小さくして確認する。 「もちろん、知っている。それは生まれつきの属性なのか?」 「多分、そうです。女性にそういう意味での関心を持ったことは生涯一度も有りませんでしたから…」  ケンはノーマルだ。引かれるかと思ったが真剣な顔で質問を重ねてくる。 「で、初体験は俺が見たあの男だろ…。随分オクテなんだな…。ゲイの友人は何人も居るが、皆、初体験は10代だ。日本では皆が20代になってからそういうコトをするか?」  そんなことを聞かれても困ってしまう。聡は眺めるだけの恋愛で満足していたし、日本人でゲイであると自分が知っているのは「グレイス」のオーナーと田中祐樹だけで…それもひょんな偶然から知っただけなのだから。 「日本にもゲイの集まるバーは有ります。でも、私は一度きりしか行ったことが有りませんし、ここと違って、日本ではゲイだとカム・アウトするのは社会的にもリスクが高いので…」 「そういうものなのか…。しかし、ゲイの集まる店があるのならお相手探しは出来るだろう?俺がクラブで美人を探すように…」  二人して懐が暖かいため、バランタインの30年モノをボトルで注文し、飲みながら話していた。 「…それが、逃げて来たんです。ここまで。一回行ったゲイバーでショッキングな光景を見てしまったので…」  一度行った「グレイス」での田中祐樹が嬉々とした様子で綺麗な男性との連絡先を交換している光景が脳裏に浮かんだ。 「逃げて来たとは穏やかではないな…。何が有った?」 「私は家庭的にも経済的にも恵まれず――医学部進学はこの国と違いお金が掛かります。  経済的なことは、とあるラッキーなことが有ってクリア出来て医学部に入れました。けれど自分は不幸を招き寄せる要素があるのではないかとさえ思っていました。――周囲は皆恵まれた人間ばかりでした…家庭的にも経済的にも…。同じ学部の後輩に多分家庭的にも経済的にも…そして性格的にも恵まれているだろうなと思わせてくれる人がいました。  日本ではゲイはまだまだ少数派です。当然その彼も異性愛者だと思ってました。告白したら…気持ち悪がられるだけだと思って…そっと物陰から見ているだけで満足でした。あの彼なら私の不運を跳ね返してくれるのではないか…と…そう思えるようになって、ますます目が離せなくなりました。」 「成る程な…自分に欠けているものをその彼が持っているように見えたわけだ」 「そうです。その内、病院にゲイバーの経営者が入院してきたのです。職業柄でしょうか…私がゲイだということを見抜き、経営するお店に誘ってくれました。たまたまそのお店に行った時、その彼も居て、しかも綺麗な男性がアプローチしていました。その人になんか私は敵いっこないと、そう思って…しかも、異性愛者だったら諦めもつきます。  けれども同性愛者だと分かったら…対象内でしょう?でも、彼には綺麗な人と付き合っている…そう思うと居ても立ってもいられなくなった。だから教授の推薦のままにこちらに来ました。  そしてケンも見掛けた人と寝てみたのは、寝たら相手のことが彼以上に好きになるかも知れないと思って…」  その言葉を聞いたケンは少し考えていた。 「寝ても、好きにはなれなかった?」 「ええ。これが『彼』だったら良いと思っていました」  酔いも手伝って素直な心情を吐露する。 「…1人だけ寝ても、その相手との相性が悪かっただけだと判断出来る。その場合は、他の相手にも試してみるべきだな。経験値が低すぎる」 「しかし、その後は忙しすぎて相手を探す余裕はなかったのです」 「それは逃げだ。本気で相手を探そうとしているなら、いくら忙しくてもマメにゲイの集まる場所に行くべきで…それをしなかったというのは、日本の彼を忘れたくないと思っているのではないだろうか?潜在意識の中で…」  鋭すぎる意見にギョっとした。確かに田中祐樹はずっと心の中に棲んでいる。  人工心肺から心臓を体内に入れ、拍動が戻って来る間の短いけれど、とてつもなく長く感じる時間に田中祐樹のことを考えていた。 「忘れるためには、やはり新しい恋をしなければならないと?」  ケンはゆっくりグラスを口に運び、一口飲み干すまで時間をかけた。考えをまとめているのが表情で分かる。 「新しい恋は闇雲に探せと言っているわけではないんだが…。サトシの恋心の傷は深そうだから…。それこそ、サトシの手技でも回復は覚束ない程度のようだ…。だが、新しい恋を始めないことにはそれこそ、ずっと日本人の彼を忘れることは出来ないだろうな…」 「そう…ですね」 「それに、その『彼』が日本のゲイバーで口説かれているのを見ただけだろう?ゲイバーでもこちらのクラブでもそうだが、口説かれていたからといって付き合うかどうかは数回のデートで決めることだし、仮に付き合ったとしても別れている可能性もあるじゃないか。サトシの結論は…正直な感想を言わせて貰えば…早計過ぎたと思うのだが」  そこまでは考えていなかった。確かに付き合っているかどうかは分からない。沈黙する聡に力付けるように微笑んでくれた。 「恋愛なんて、タイミングの問題もある。同じ人間でも、ラブラブの恋人が居る時は鉄壁だろうが…失恋したてだと付き合ってくれる可能性は高くなる。その見極めが大切だ」 「…そう…ですね…。それに何より私は自分から告白をしたことがないので…」  心の底から驚愕しているのが分かるケンの言葉だった。 「ワオ!それは、恋愛の可能性を50%、いや60%捨ててかかっているようなものだぞ。とても惜しいことをしたものだ。これからは勇気を出して告白すべきだ。ちなみに俺は自分からどんどん告白するぞ」 「…そういうものですか?」 「そういうものだ!」 「有り難うございます。これからの参考にします。少し前向きに行こうと思えるようになりました」 「いえいえ、どう致しまして。  ところで、内科に日本人の医師が入って来ることになった。うら若き女性だそうだから楽しみだ」 「そうなんですか?大学もアメリカの方ですか?」 「いや、日本だ。何でも本場の内科で学びたいとドクター課程はこちらだが…まだ、直接は会っていないが、見た人間の話によると品の良い日本美女だそうだ。楽しみだな」  特に興味はないので、聞き流していたが、田中祐樹はまだあの綺麗な人と付き合っているのかが気になった。  アドバイスが親身なものだったので、勘定は自分が持つことにして別れた。  帰る途中、自分の恋愛についても考えさせられたが、今は手術のことを考えるのが手一杯だった。ケンのようにオンとオフの切り替えは出来そうになかった。  こちらでは手術の腕は上がるが、拝金主義的な病院のシステムには付いて行けないものを感じていた。日本の医療も矛盾だらけではあるが、タテマエでは皆平等に手術が同じ値段で受けられる。  こちらに長く居ると万事がお金だと考えてしまいそうだった。自分が医師になろうとした初志が擦り切れそうな気がする。この病院の医療は素晴らしいが、手技などを公開していない点が不満だった。

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