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第四章 第5話 教授視点

 しばらく執刀医として勤務してきた聡だった。ゴールドスミス博士の止むを得ずの戦線離脱に、患者に心理的な波紋を呼び起こしたことは比較的患者に近い内科医のケンからも聞いていた。。  ケンも言っていたように、「金持ちほど気まぐれ」なのは理解していたので、転院する手術待ち患者が出ることは想定内だった。  しかし、一例目のオイルダラーは、「手術の速さや正確さ術後の経過が博士よりもサトシ博士の方が上かも知れない」と入院患者に漏らしていたという。   これは病院長から聞いた話だが。  そのため、転院する患者はおらず、聡を執刀医に望む患者の手術を精一杯の努力でこなしていると、「サトシ博士に執刀をお願いしたい」と、名指しで入院患者が増えるようになった。  ゴールドスミス博士の代役ではなく自分に指名が掛かるとは思ってもいなかっただけに驚いた。  が、自分の手技を認めてくれた患者さんが居るというのはとても嬉しい出来事だった。  病院長も聡の指名が増えるにつれ、歯の浮くようなお世辞を言う始末だった。  そろそろ、こちらの要求を通すべきだ。  そう思ったのには理由がある。今までの手術の成功例は自分でも驚くが、100%だった。これは快挙以外のなにものでもないが、他の病院では「手術不可能」と診断されるほどの難易度の高い心臓バイパス術だ。成功し続けているのは奇跡に等しい。いずれ、成功率は落ちるだろう。その時に病院長に自分の希望を伝えても黙殺されるに決まっている。今なら辞職すると脅せば希望は叶いそうだ。 「お願いがあります」  院長室に行ってそう切り出した。 「何だね。報酬の件なら…」 「いえ、待遇はこのままで結構です。私も手術にようやく慣れというか、充実感が味わえるようになりましたから…」  それに、成功した患者が包む小切手や現金はうなぎ上りだ。金銭欲のない自分は全て貯金や資産運用のプロに任してあるが、つつましく暮らしていけば一生お金には困らないほどの金額が口座に入っている。 「では…何かね?」 「私の手術の撮影を許可して戴けませんか?そして、その画像を外科医師の発表会で流して戴きたいのです」  拒絶されれば、別の病院で雇ってくれるだろうと思っていたので気楽に言えた。が、あくまで真剣な顔で言い募る。  院長は額に脂汗を浮かべながら考え込んでいるようだった。そこにトドメのように言う。 「許可して戴けないのなら、これを持参しました」  封筒の表書きは「辞職願い」だった。 「分かった…カガワ博士の意に沿うように、理事達とも話し合う…」  自分は皆に公開して参考にしてもらい、なるべくこの手術で死亡する患者が減るという、病院の利益ではなく患者の側に立った医療がしたかった。  もちろん、自分を待っている患者さんが第一に優先されるべきだろうが。  一週間後、院長室に呼ばれた。院長は苦渋に満ちた表情と口調で早口に言った。 「君の提案を全て受け入れることになった。しかし、学会には出席は不可能だ。ウチの患者の手術を優先して貰う」 「有り難う御座います」  深くお辞儀をして院長室を出た。学会に出て、これ以上偉くなるつもりはない。この病院で門外不出の手技が、心臓バイパス術の進歩に繋がればそれで良いと思っていた。  病院の経営者サイドもさぞかし悩んだだろうな…と思う。  門外不出の手技というのは、経営的には重大な武器だ。しかし、今まで積み上げてきた自分の実績も無視出来ないくらいにはなっている。  自分の手技が余所の病院に移ると患者もその病院に転院を希望するだろう。   手技流出と患者数激減という、聡が描いたシナリオよりも、聡を執刀医として置いておけば少なくとも患者数激減は避けられる。  だいたいがそのような目論みだと予想していた。  自分の部屋に帰ると、ケンが待っていた。その後ろにはうら若き美人が立っていた。白衣を着た日本人だ。きっと以前、ケンが言っていた内科の日本人医師だろう。 「今日は、ナガオカ先生がお前に会いたいと言うから連れてきた。ファンなんだそうだ」  ケンは意味ありげにウインクした。  ――自分の性癖は知っているハズなのに――  溜め息を押し殺して、ナガオカ医師に挨拶をした。ケンは、「急用が…」と言ってワザとらしく退室した。 「初めまして。香川聡です」  そう言うと、客観的には美人なナガオカ先生は嫣然と微笑んだ。 「長岡美樹子です。先生のお噂はかねがね…」  女性…しかも妙齢の美女ともなると、部屋に長い時間居ると誤解される危険性に気付いてお茶に誘った。幸い、本日は手術のない日だった。  職員用の食堂に行き、コーヒーを頼む。長岡先生のオーダーを聞いてからコーヒーを二つ頼んだ。  確かに客観的に見れば美人だと思う。だが、自分にはどうでも良いことだった。  長岡先生は、途方に暮れた顔つきで「あのう…」と切り出した。 「先生は、お裁縫なさいますか?」  意味不明な質問と、どこかおどおどした感じに違和感を覚える。裁縫…とは、高校時代、技術家庭科でやらされたことがあるが、その裁縫だろうか? 「裁縫というと、スカートとか縫うものですか?」  一応確認してみる。 「そうです。先生はお得意でしたか?」  先ほどの嫣然とした様子は全くなく、自信がなさそうな顔をしている。何故、そんなことを聞かれるのか全く分からなかったが。 「高校時代、授業の一環でスカートなら縫いました。でも、あれは型紙通りに布を切断して縫って行けば誰でも出来ますよ」  縫ったスカート――どうして男子にスカートなどを縫わせるか当時は不思議に思ったが短時間で縫い上げ、教師に提出した――は、成績が5だったのを確認し、欲しがる女子に上げた思い出がある。 「私は、手先が不器用で、型紙通りに布を裁断して縫ったのは良いのですが…タイトスカートを作るつもりが中途半端な台形のスカートが出来てしまいました。自分でも不器用なのは分かっているので、香川先生は憧れです」  第一印象の美人というイメージは払拭されて、今は飼い主を見る犬のような目をしている。  どういう人なんだ?と素朴な疑問がわいた。こんなにも印象が変わる人間も珍しい。しかも不器用なら、日本の医学部を卒業出来たのにも驚きだ。

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