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第四章 第6話 教授視点

 決して恋愛感情ではなく、長岡先生はどんな人なのかという素朴な疑問にとらわれた。  完璧な薄化粧――と聡には見えた――とスキのない白衣の着こなし…と思って失礼のないように観察していると、白衣の第二ボタンを留めるべきボタンホールに第三ボタンが留められていた。が、彼女の全体の雰囲気からか、だらしないようには感じなかった。彼女の人徳なのかも知れない。  そこから覗くのは、聡でもこれだけは分かるシャネルのマークのボタンだった。どうやら噂に聞くシャネルスーツらしい。 「大学はどちらですか?」  そう聞いてみると、赤面して即答がない。 「香川先生は関西ですよね。日本語で話すと、かすかに関西のイントネーションです」  食堂では他の人間に聞かれてもいいように日本語で話していた。 「ええ、京都です。」 「大学は京都ですか?」 「そうです。」  ますます、おのれを恥じるように小さな声で言った。 「大学は…東京です。先生の大学の方がノーベル賞受賞者は多いですけど…」  驚愕した。日本一の医学部に通っていたと示唆されたのだから。 「…あのう、香川先生とお近づきになりたくて…ステーブン先生にお願いしたら快諾して下さったので、履歴書を書いて参りました」  どうも行動が突飛過ぎるような気がしたのは事実だが。ただ、聡に見せるためだけに履歴書を書いてくれたという点は少し――あくまでも、ヘンな行動であることに変わりはないが――興味を覚えた。 「これがそうです」  そう言って日本のコンビニなどで売っている履歴書の封筒にきちんと封をした物ををオドオドした手つきで差し出して来た。 「開けてもいいですか?」  コクコクと頷く。その動作はまるで女子中学生のようだった。思わず笑いそうになって慌てて顔の表情を引き締める。  その書面には、K大の幼稚舎から高校まで、そして現役で日本一、難易度が高い医学部に入学――長岡先生には悪いが――留年もせずに6年で卒業と書いてあった。 「どうして上の大学にそのまま上がらなかったのですか?あそこには医学部もあるでしょう?」 「それが…成績にばらつきが有って…学科は大丈夫だったのですが、実技系の体育とか家庭科が赤点ギリギリだったので…医学部には推薦出来ないと担任の先生に言われました」  あの大学は内部進学の場合、総合の成績順に学部振り分けが行われると聞いたことがある。 「で、模試の成績を見た進路指導の先生が受けろとアドバイスを下さったので受けてみたら通りました」  なるほど……筆記試験や暗記科目「は」強いらしい。 「でも、どうして医師になろうと?」 「…実は家が開業医で、あ、それは兄が継ぐことになっているのですが…実は内々の婚約者が居るんです。これは香川先生にだけこっそりとお教えしてしまいますね。E総合病院ってご存知ですか?」  個人が経営する総合病院の中では日本で一二を争う規模の病院だ。聡も名前は耳にしていた。 「ええ、知っています。そこの院長先生の御曹司か何かと婚約されたのですか」 「何故だか分かりませんが気に入られたみたいで…。内科医として一人前になったら結納をする予定なんです。内科を取り仕切って欲しいと言われたもので…でも、彼には政治家のお嬢様とか色々な縁談が舞い込むので内緒にして欲しいと言われています」 「しかし、医学部では大変だったのでは?」  不器用さは医師の適性に大きく影響する。 「ええ、実習は本当に大変で…手技が影響する科目はみんなCでした。」  Cはギリギリ単位が貰えるラインだ。Dだと不可となりもう一度履修しなければならない。 「よくCが貰えましたね」  こちらを見詰める目が、まるで犬のようだったので失礼なことを言ってしまう。 「国公立の医学部は国が補助金を出してますよね。なので、留年させると国民の皆様に余計な負担をかけることになるから…と言われてCをくれた教授もいらっしゃいます」  ああ、そういうことかと思った。助成金の額は年々減っていると聞いている。本人(または保護者)が納入する学費のみで医学部は存続出来ない。足りない分は税金からだ。  それなら留年させず卒業させた方が、税金の無駄使いはなくなると教授陣は判断したのだろう。  とても悲しげな目をした長岡先生を見て、話題を変えることにした。 「綺麗な化粧ですね。美人の雰囲気にぴったりです。  それに高そうですがとても素敵なスーツを着ていますね」 「え?このスーツって高いのですか?良く分からないのです。母の行き付けのお店なのでずっとそこで買っているのですが…それにそこには化粧品部門があって、プロの方がお化粧の仕方を一生懸命教えて下さって…。でも、自分でやってみるとヘンになってしまって…それで相談したら、実技のように練習させて下さって、その上紙に細かく書いて貰ってその通りにしているだけなんです」  要するに浮世離れしたお嬢様なのだな…と思った。きっと金銭的な苦労など一生縁がなさそうだ。聡は今でこそ、金銭的に困ってないが幼少時代からずっと苦労をしてきた。    が、今となっては過去の話だ。世の中には色々な人間が居る。しかし、長岡先生は医師として大丈夫なのかという不安が芽生えた。 「もし良ければ、私の部屋に行ってある患者さんのデータをお見せします。内科医的なアプローチの所見をお聞かせ願えませんか?」  そう言って、場所を変え、今手術待ちの患者さんのデータを見せた。  カルテとCT画像を見せると、カチリとスイッチが入ったような真剣な顔と、今までの頼りない口調がウソのような明晰な言葉遣いになった。 「この患者さんなら、手術直前までワーフォリンとニトロの点滴が必要ですね」  そう言うと、白衣のポケットからメモ用紙を取り出し、手術数時間前から手術直前までの薬剤の量を細かく書き出した。  そのメモ用紙を見て、また彼女への印象が変わる。ケンよりも内科的な観察眼は優れているのかもしれないと思った。  彼女はきっと、何かの手引書が有れば有能な人間になるらしい。日常生活を送るのには向いてなさそうだが…。

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