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第四章 第7話 教授視点

「そのメモ…参考にしたいので…戴けませんか?」  そう言った途端、彼女の大きな目が零れ落ちんばかりに開かれ、数秒の間瞬きを忘れたかのように自分を凝視している。綺麗なサーモンピンクに塗られた唇は数回閉じたり開いたりしたが、どうやら言葉を忘れたらしい。 「そんな…香川先生の参考になんて…畏れ多すぎます…ダメです。嬉しいけど…けれど、少しでもお役に立てば…とも思いますし、どうしよう?」  間違った日本語で一人呟いている。 「是非、お願いします」 「恥ずかしいので誰にも見せないで下さいね…失礼しました」   そう言って紅潮した頬のままメモを置く。丁寧に一礼し、妙にギクシャクした足取りで出て行こうとする。ドアの近くまで行くと、ドアノブを回し扉を開こうとする。が、彼女は前に向かって力を掛けている。 ――このドアは内開きなのですが――  と言おうとしたが、彼女が余りに真剣なので、椅子から立ち上がり、扉を開けてやった。 「やっぱり香川先生ってスゴイですね」  驚嘆の眼差しでお礼を言われた。  保護者になった気分だった。もしくはドジな妹を持った…。  長岡先生の才能――偏ってはいるが――は確かなのだろうか?  メモを見詰めながら考えた。  今日は幸いなことに手術がない。ケンは忙しいだろうが、オフはきちんと取るタイプなので定時には帰宅するだろう。その時にでも聞いてみるか…と思った。  定時にケンの部屋に内線電話を掛けた。話があると切り出すと、食事と酒付きなら付き合うと言われ、苦笑して了承した。  長岡先生に見せた患者さんのデータを書類鞄に入れ――本来は持ち出し禁止なのだが、LAという場所柄かそうウルサイことは言われない。次の日に責任を持って返しておけば大丈夫だ――帰宅準備をしてからケンの部屋に行った。  二人してこの前使ったホテルのバーに行く。ケンは女性との出会いのチャンスあるクラブを希望したが、患者のデータをそんな場所で相談出来るわけがないので、押し切った。 「ミキコ先生の仕事振りはどうだ?」  乾杯した後、開口一番に切り出すと、ケンはニンマリと笑った。 「ミキコ先生に惚れたのか?もしかして?」 「ケン、私の性癖を知っているでしょう?女性をそういう対象として見たことはありません」 「だが、バイ・セクシャルってケースも考えられるからな…ミキコ先生はヤマトナデシコといった風情でしかもテキパキと仕事が出来る。内科医の鑑としても病院で有名だし、言い寄る人間も多い。」 ――テキパキと?――  そう思ったが、メモを取る時は確かに仕事の出来そうな内科医といった風情だった。 「そういう可能性は多分ないでしょうね…。で、このケースの患者さんの場合、ケンなら手術までどうやって体力保持を図りますか?」  そっけなく否定すると、持参した資料を見せて聞いた。 「そうだな…。」  少し考え込んだケンにスケジュール帖に付属していた紙を手渡す。 「これに、手術前の投薬をタイムテーブルで書いて貰えませんか?」  眉間にシワを寄せたケンにボールペンを渡す。 「勤務時間外にこんなコトをさせるのだから、ここの支払はサトシ持ちだな?」 「ええ、もちろんです」  その言葉に、店員を呼びつけ一番高価なオードブルを注文してから紙に猛烈な勢いで書き出した。  その紙を聡の方にひらひらと差し出した。  確かに良く出来ているが、外科医の立場からすると、長岡先生の投薬方法の方に軍配が上がるような気がする。こんなことは失礼なのでケンには言えないが… 「有り難う御座います。参考にします」  キャビア・トーストをほおばりながらケンは頷いた。 「その後、新しい恋人か、恋人候補は見つかったのか?」  ケンが少し心配そうに聞いた。 「いえ、アドバイスは胸に大切に仕舞ってあるのですが…どうも、そういう気にはなれなくて…」  初体験は悪くはなかった。セックスとはこういうモノかと思った。が、惹かれるものも無かった。それを繰り返す気も… 「何だって?あのアドバイスはずっと前だぞ?それなのに恋人探しをしていなかったのかい?」 「はい…どうしてもあのクラブに足を向ける気にはなれなくて…」 「それは、お相手した彼と会うのが嫌だからか?それなら、その手の人間が集まるクラブはまだまだ知っているから紹介するが?」  ケンの厚意には感謝するが、どうしてもその気になれない。 「今は、恋人を作るような心のゆとりがないようです」  微苦笑を浮かべて言った。 「ゆとりで恋人を作るものでもないと思うのだが…ただ出会いは有った方が良い」  真剣な表情でそう言ってくれた。  だが、田中祐樹が心の中に棲んでいる限りは無理だと思った。  「もしかして、日本に居る『彼』のことを?」  ケンは鋭い。つい頷いてしまった。 「それなら、一回、日本に帰ってケリを付けて来い。その『彼』がフリーだったら願ったり叶ったりだし、告白して振られたら次を見つけるジャンビング・ボードになる」  ケンの言葉はもっともだと思うが、告白する勇気は…正直なかった。 「そうですね…その内に…。 それよりも、長岡先生を私のスタッフに入れるように取りはかって戴けませんか?」 「それくらいはお安い御用だが…。天才は天才を知るってヤツか?」  ケンは意味不明なことを呟いていた。    自分の手術の様子が録画され、アメリカの医学会で公表された。その日、聡は手術が有った。だから、欠けても戦力的に問題がない、第三助手を発表者とした。  二例の手術をつつがなく済ませて、部屋で休んでいると第三助手が報告にやってきた。学会から直接来たらしい。 「素晴らしい反応でしたよ!出席者は画像を食い入るように見詰めていましたし、その後の質疑応答は挙手しない出席者が居ないような有様で…。疲れましたが、充実した時を過ごさせて戴きました。  その後、先生の手技は『カガワ術式』と名づけられることが過半数をはるかにオーバーして決まりました」  学会で認められるのは少し嬉しかった。自分の手技が他の医師に真似されても、救える命があればそれでいいと思った。  その後、論文執筆の依頼が増えた。手術の片手間にしか書けないので、論文数は少ないが自分の術式とその成功率を余すところなく書けたものだけ、医学専門雑誌に提出し掲載された。  それが、大きな波紋を呼び起こすこと運命が変わることを聡は気付かなかった。一生LAで患者の手術に明け暮れる毎日を過ごすだろうと思っていたので。

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