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第四章 第8話 教授視点
アメリカは訴訟社会だと良く言われる。実際、日本と比較しても弁護士費用も裁判費用も安い…らしい。そのため「患者に訴えられないようにするにはどうすればよいのか」も予備知識として備えてあった。要は患者やその家族にリスクを充分に説明し、信頼に足る医師だと思って貰うことが大切だと考えていた。全てを納得してもらった上で手術を行うという基本さえ押さえておけば訴訟までは行かないことも…。
日本の医療改革が進んでいることや、そして日本国民が医療に不信感を抱き始めたこともネットでは知っていた。
が、それがまさか自分に関係するとは全く思っていなかった。ノーザンクロス病院所属の外科医としての実績は自分でも奇跡だと思うほど順調だった。術死ナシ、予後不良ナシという成績を買われて、論文執筆の依頼が山のように来たが、愛読している医療雑誌に最小限の論文を発表しただけだった。アメリカでしか読まれないし、学会の代理発表もアメリカ人の医師を対象にしたものと思い込んでいた。
というのも、医学部卒業後、すぐにアメリカに来て――いくらこちらでは有名でも一介の病院に過ぎないノーザンクロス病院の勤務医にやっと成れたとしか思っていなかった――日本の大学病院というものは、その大学に残り地道に研究をして講師から准教授、そして教授になるものと。それは無縁の世界だった。
が、ある日、長岡先生――彼女はすっかり自分に取ってはかけがえのない内科医になりおおせていた。あくまでも内科医としての腕だけだが――の母校からのエアメールの封筒を見て驚いた。そして中身を見て驚愕した。
「教授のポストを用意しましたので、是非とも我が大学病院で診療して戴けないでしょうか」
要約するとそんな文章だった。
教授のポスト…そんなものが自分に舞い込んで来るとは手紙を読む前には想像すら出来なかったことだった。
長岡先生の手の空いた時間を見計らって自分の部屋に来てくれるように頼んだ。彼女の母校なので少しは詳しい話が聞けるだろう…。
控えめなというより、かすかなノックの音がした。こんな扉のたたき方をするのは長岡先生しか居ない。入室を許可する声を掛けると恐る恐るといった感じで長岡先生が入ってくる。
自分が声を掛ける前だったが、顔にはナゼか悲壮感が漂っていた。
「あの…何か私に失敗が…?」
この部屋で話すと長岡先生は校長室に呼び出された――といっても聡にはそんな経験は皆無だったが――劣等生のような感じがする。この部屋以外では冷静な美人医師といったたたずまいなのだが…。
「いえ、そうではありません。こんな手紙を受け取りました。予想外の文面に驚いて是非長岡先生の意見をお伺いしようと」
そう言うと表情が安堵に変わる。丁寧に便箋を受け取ると、信じられない速さで読んで、両手で便箋を返してくれた。
「日本の医療改悪…もとい、医療改革はご存知ですか?」
「大体は知っています。医師を監督する厚生労働省も国民の顰蹙を買ってますし」
「研修医制度も変わりました。以前は所属大学病院で研修医をしてから一人前の医師になりましたが、今では研修医はどの病院でも受け入れが可能となり、大学病院から人材が減っています。それに何より医療に対する国民の不信感が強まり、悪化する一方です。
それで、教授会の賛成があれば、外部から准教授や教授を招聘出来るようになりました」
理路整然と説明する。さっきの態度とは大違いだった。
「しかし、日本一の大学が、私を招聘する理由が分かりません」
彼女は清楚な感じで微笑んだ。
「国立大学病院でも赤字に苦労しています。大学病院が独立行政法人になったので、民間病院と同じく倒産の可能性は少なからずあります。先生の天才的な手技や論文、学会での発表を見てのオファーではないでしょうか?先生を看板に出来ますから…」
論文はともかく、学会発表ではヒンシュクも買っていることは知っていた。なのでこちらの学会では毀誉褒貶が渦巻いていることも…。聡は一度も発表したことがないため、それが「テングになっている」と一部の外科医師達からの批判だった。だが聡にとっては手術優先のためには仕方ない措置だったが、学会発表を最優先して考える医師も存在する中では、確かに自分は浮いているだろうな…と思う。が、どうしてアメリカでの発表が日本に届いたのだろうか?
その疑問をぶつけてみると、長岡先生の理路整然とした答えが返ってきた。
「アメリカは医療の先進国として、日本の研究者達も出張扱いで出席出来るコトをご存知ありませんでした?」
そんなことは知らなかった。自分がアメリカに来た当初は、単なる医療スタッフ扱いだったし、日本の大学の内部がどうなっているのか単なる学生だった自分には分からない。
「日本の医療に貢献出来たら良いとは思いますが、この招聘は受けた方が良いと思いますか?」
タテマエ八割、ホンネ二割だった。
長岡先生はしばらく真剣な眼差しをして考えていたが、キッパリと言った。
「私はオススメ出来ません。母校なだけに悪く言うのも何ですが、一番旧態依然としています。先生が教授におなりになったら、その若さへの羨望も手伝って他の教授陣からの反発が物凄いと思われます」
仕事の話となると立て板に水と説明してくれる。
「では、他の大学では?」
招聘話はこの一件だけだろうと思ったが、一応聞いてみた。
「ウチの大学の教授は選民意識が強いので、風当たりも物凄いと思われますが、他の大学病院だと、それほどでもないかもしれません」
成る程と思った。
「では、断ります」
そう言って、丁寧な謝絶文を送った。
その後も、ノーザンクロス病院で、自分の思う通りの手術を行っていた。
そこに、自分の母校からのエアメールが届いた。同窓会か何かの知らせかと思って気軽に開封してみると、恩師である佐々木教授からの直筆の手紙だった。
――退官を控え、後進に譲りたい教授のポストだが、残念なことにこれといった人材は居ないのが遺憾だ。出来れば香川君を推薦したいのだが――
要約するとこのような手紙だった。母校に教授というポストで戻る?
教授は50代で運良く掴めるポジションだ。それが29歳で?
気になったのは田中祐樹が大学に残っているかだ。もし残っているのなら、いつかケンが言った通り、もう一度、向き合ってみたいと思った。公私混同も甚だしいが。
手紙に書き添えてあったメールアドレスにメールを打った。
「考えたいこともありますので、心臓外科の医師の全リストを送って戴けないでしょうか」
と。
すぐに返信が来た。熱烈な招聘の文言だった。PDFファイル添付を開くと、「田中祐樹」の名前が真っ先に飛び込んできた。
教授の肩書きや権力には興味はないが、彼と再会出来る。
日本に帰ってみようかと思った。
彼は研修医として名簿にあった。年齢を考えると妥当だろう。教授として母校に返り咲くと、年齢差も変わらないことから彼の心証が悪くなるのも当然考えた。
が、もう一度彼の顔を見たい…そちらの気持ちの方が勝っていた。
一生、顔を見ることを諦めていたが、自分が佐々木教授にOKの返事さえ出せば見ることも会話することも出来る。
真実を知る機会が与えられた恐ろしさ半分、そしてこの上なく甘美な誘惑だった。
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