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第四章 第9話 教授視点
こちらの国に来てから、日本に帰るという選択肢は考えて居なかった。そんなチャンスなどないと思い込んでいたが、思ってもいなかったところで人生の転機となる話が舞い込んできたと思った。
が、そんなに軽率に動けない事情もある。まずは自分が執刀を予定している患者さんの手術は全て行わなくてはならない。自分の身一つでアメリカに来た時とは事情が変わっている。
そして何より厄介なのは、日本の大学病院の硬直性だった。年齢的には駆け出しの自分が本当に教授というポストに就くと他の教授達や、准教授達の反発も予想される。恩師である佐々木教授が強く推薦して下さったのは有り難いが。
そういえば、アメリカに来るきっかけも佐々木教授の推薦のお陰だったと懐かしく思い出す。
本当に自分を必要としてくれるなら…自分に自信が持てない性格だけに…その要望に応えたいとは思った。こちらでの仕事も充実していて自分では満足していた。病院にも不満はない。
どうすべきか、相談する相手は…そう思うとケンしか思い浮かばなかった。彼には全て話してあるので。しかもこの病院のことは良く知っている。自分がもし抜けた時はどうなるかを客観的に判断してくれそうだ。アメリカ人らしく合理的に。やはり、根っからの日本人である自分には「情」や「しがらみ」まで考えてしまう。
ここまで考えて自分に苦笑した。一番目の招聘の件は――長岡先生のアドバイスが有ったにせよ――躊躇せずに断ることが出来た。それが今回は悩んでいる。「田中祐樹」が大学に留まっていることが分かったせいで、理性と感情がせめぎあっている…。
時計を見た。ケンも運が良ければ診療時間外だ。内線電話を掛けて夜会うことを提案してみようかと思った。相変わらずクラブで理想の美女と出会うことを目標にしているケンが、まだ意中の美女と巡り合ってはいないことは知っていた。デートの約束などはないハズだ。
相談があるからいつものホテルに来て欲しいと電話で伝えると、声音から何かを感じ取ったのだろう。いつもの能天気なジョークなしで快諾された。勤務時間が終ってから会う約束をする。
手術は、患者さんがベストな状態の時を選んで行われるが、基本的には突発的な手術は行われない。長岡先生が聡専属の内科医になってから、患者の体力や投薬量など全て任せられるようになっていた。
彼女が居る限り、自分の突発的な手術は激減した。今日は定時に仕事が終りそうだ。
救急医療室勤務の医師が聞いたら激怒しそうな、前もって手術の時間が決まっているというのは本当に助かる。
長岡先生は今や聡にとってはかけがえのない内科医だった。あくまでも仕事面だけだが。
そう考えて、日本の大学病院を思い出す。内科は内科、外科は外科で完全に領域分けがなされている。この硬直したシステムを変えなければ、患者の望む医療とは言えないのではないだろうか?全く違う病例を扱うのならともかく、同じ患者を縦割りで区切ってしまうのは日本の悪しき伝統だと思った。
日本の医療改革で大学病院が独立医療法人となり、従来ならば公務員だった大学病院勤務の医師が公務員ではなくなった。それだけならまだ良いが経営が破綻しかけている大学病院もあるそうだ
そこで気になったのが、母校の大学病院の経営実態だ。佐々木教授は外科医として、また教授としては立派な人物だが、経営までは把握しているのだろうか?
言葉は悪いが、根っからの外科医で昔ながらの教授なので把握しているとは到底思われなかった。手紙やメールの文面も「医師として…教授として」との単語が目に付く。
長岡先生の方が日本の病院経営には詳しそうだ。病院経営者の御曹司か何かと婚約しているので、そういう話は入って来やすいだろう。
今までの経験から自分の部屋に彼女を呼ぶとミス「杞憂」と名付けたいほど緊張して部屋に来るので彼女に内線電話を掛け、聞いてみることにした。こういう場合は日本語で話せるので長岡先生も周囲の耳を気にしなくていいだろう。
「さっそくですが、K大病院の経営状態をお聞きしたいのですが?」
彼女に前置きの言葉をかけると、ナゼかしどろもどろになる。開口一番、用件を切り出すのがベストだと今までの経験上分かっていた。
「思わしくありませんね。特に産科と小児科。これらは完全な赤字です。
病院ではありませんが、医学部内に再生医療の研究室があり、世界的な注目を集めていますが、実用化されて収益を見込めるのはまだまだ先の話だと思います」
「では、何か画期的な手術で有名になれば病院は潤うと?」
「ええ、全国から患者さんを集めることが出来れば赤字は削減出来るでしょう」
ナゼ、そんな質問をしてくるのか分からない…といった感じの声だった。
自分が教授になり、執刀医を務めることになったら、アメリカでの実績から考えて少しは貢献出来そうな気がしてきた。
ケンとの約束の時間が来たのでケンの部屋に行った。彼も帰る用意万端で聡を待っていた。
「いつものホテルのバーで良いな?」
そう言うとケンは先に立って歩き、タクシーを停めた。
「で、相談とは?」
ウエイターが去ると開口一番聞いて来た。
「それが…日本の母校から教授として招聘されたのです」
「ワオ!それはスゴイ。母校といえば『彼』の居るところだよな」
乾杯!とグラスを当てながら笑いかけてくる。
「正直、日本に帰ってみようかという気はあります。ですが、この病院にも良くしてもらいましたし…」
「サトシのオペは全部画像で残っている。これは貴重な我が病院の財産だ。それに第一助手も第二助手もサトシの術式を練習している。何なら、執刀を一時的にでも彼らに任せたらどうだ?ゴールドスミス博士がサトシにしたみたいに。それに腕の良い執刀医は勤務先を変えることなんか日常茶飯事だ。今、サトシが執刀すると確約している患者だけの執刀をすればそれで問題ないさ。それにサトシはウチの病院だけでなくアメリカ全土の心臓外科に術式を公開した。この国の医学界に充分貢献したと思わないかい?」
手術画像がこんなところで役に立つとは思わなかった。良い置き土産になるな、とフト思った。
「しかし、日本の医学部は独特で、自分の言いたいことが言えないという悪弊もあります。もっとも、最近は少し改善されたようですが」
「…それは俺には分からない世界だが…いっそのこと、思いっきりワガママを言ってみて、向こうが呑むか呑まないかで判断出来ると思うが」
その言葉に長岡先生を外科所属の自分の右腕として――内科医ながら外科所属というのは充分常識外れだ――連れて帰りたいと言ってみてはどうか?と思った。もちろん本人の意向を確かめてからの話だが…。
もし、その希望が叶うなら、少しは柔軟性が期待出来る。
「そうですね。ちょっと強気の交渉をしてみます」
「それが良いと思うぞ。それに日本の大学教授になってみて、合わないと思ったら――まぁ、他の理由でも良いが――アメリカ中の心臓外科を看板にしている病院…むろんウチも含めてだが、勤務先や年俸は選び放題だと思うぞ」
――「他の理由」とは田中祐樹に振られる可能性だろうな…と推測していた。
神の存在は信じないが、長岡先生を受け入れてくれるかどうかで全てを決めようと思った。もし、受け入れてくれないのなら、大変辛いが…それが神の意思だと思おうと決意した。
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