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第四章 第10話 教授視点

 翌日、長岡先生の気持ちを聞こうとして、内線電話に手を伸ばしたところだった。  辛うじてノックの音だと分かる儚げな扉の叩き方がした。こんなノックの仕方は長岡先生しか居ない。  手間が省けたので「どうぞ」と入室を促す。  長岡先生はまだ私服――いつもの通りシャネルスーツ――だったが、顔には並々ならぬ決意を宿しているようだった。オドオドしているのはこれもまた普段通りだったので余計に、いつか観た時代劇での一場面が連想された。殿様に直訴しているお百姓さんがちょうどこんな顔をしていたな…と。 「こんな時間に訪問して宜しかったでしょうか。もし、香川先生のご都合が悪ければ、もちろん出直します。しかもアポなしで…」  彼女の言葉を聞いていると、どんどん言葉が支離滅裂になって行くことは分かっていたので、遮った。 「私もちょうど長岡先生をお呼びしようかと思っていたので、好都合でした」  彼女の顔色がストンと青ざめた。 「……何か、香川先生が不満に思われることをしてしまいましたか?」  あれこれと記憶を辿っているような顔つきをしている長岡先生に笑いかけた。安心させるために。 「いえ、私にとって長岡先生は右腕です。とても信頼出来る内科医です。こんなに手術が上手く行われてきたのも、長岡先生の適切な投薬があってのことだと感謝しています」  彼女の全動作が止まった。瞬きすら忘れている。心臓が脳からの指令でだけ動くのであれば、心臓も止まってしまう恐れがあるな…と思っていた。 「本当に、右腕だと仰いましたか?」 「言いましたが?」 「幻聴ではなかったのですね。良かったです」  数分間の間を置いて呟くように言う。どうやら、脳まで届くのにタイムラグでもあったに違いない。彼女ならあり得る。 「では、先に用件を承りましょうか」  それが訪問してくれた人への礼儀だ。 「いえ、先生が何を仰るか聞いてからでないと…説明できません。何を仰るか不安でたまりませんから…」  犬が飼い主に餌をねだるときのような瞳だった。といっても、テレビでしか観たことはないが…。  「これは、絶対に口外しないで下さい。私が良いと言うまでは」  最初に釘を刺しておく。  頭を下げて、了解のボディランゲージをしている長岡先生の雰囲気は「コクコク」という擬態語が本当に聞こえるような錯覚を覚える。 「実は、母校から教授として招聘されました。大学病院の硬直性について良く知っているので、ちょっとしたワガママが通るかどうか実験をしようかと思いました。そこで『長岡先生も自分の片腕として連れて帰りたい』という交渉をしてみようかと思っています。  もちろん、長岡先生がこちらで内科医としての腕を磨きたいのであれば、他のワガママを作るつもりですが…。日本に帰りたいですか?ただ、関西は初めての土地だと思いますので、決して無理強いするわけではないのですが」  そこでまたフリーズが起こった。パソコンなら壊れる可能性があるくらいのフリーズだ。長岡先生は自分の前ではこうなる。 「え!?私も連れて行って下さるのですか?」  客観的には美人な長岡先生が――恐らくは驚きのあまり――絵画にすれば「驚愕」と名付けたいような顔になっている。 「貴女は日本人ですし、日本の医師免許もお持ちですよね。  この機会に大学病院がどう変わったのか知りたいので…もちろん、長岡先生の腕を見込んでのお願いなのですが…」  またもやフリーズ。パソコンだとリカバリーセンターに送ってしまう程度のフリーズ回数だ。 「私は…香川先生には沢山学べることがあるので、是非、ご一緒に日本に帰国したいです。  でも、ご迷惑では?」  長岡先生は自分の医師としての能力を自己客観視出来ていないのではないかと思う。この件をこれ以上話しても長岡先生の「でも・しかし・ですが」攻撃が始まるのは想像に難くない。 「了承戴いたということで、正式に交渉します。  で、長岡先生のお願いとは?」  今度は足尾銅山事件で天皇陛下に直訴する場面が浮かんだ。 「…実は内々の婚約者がこちらに来ていて、どうしても香川先生にお会いしたいと申しております。お忙しいのは分かっているのですが、お時間を頂戴出来ればと思いまして。  本当にお忙しい中恐縮ですが…」  お詫びも無限ループに突入しそうだったので強引に遮る。 「どのような用事でしょうか?」 「いつもお世話になっている御礼がしたいのだそうです。彼とはスカイプなどで良く話しますから」  いたいけな犬の瞳に負けた。いつもなら断ったかもしれないが。  それに、日本の大学病院の経営実態が聞けるかもしれない…。 「分かりました。ご招待をお受けします。何日の何時にどこに行けばいいのですか?」  こちらへは、旅行か仕事かは分からなかったが、それほど長期滞在ではないだろうと予定を聞いてみた。  長岡先生の全身が弛緩した。いつもの綺麗な笑顔で答える。 「先生、今日の手術は午前中だけですよね。ならば定時上がりですが、ご予定はありますか?」 「いえ、ないです」 「では、7時にこのレストランで。長岡の名前で予約を入れておきます。」  そう言って差し出した紙片にはこの街で一番有名――格式と料金の高さで――のフレンチレストランが記されていた。  手術前に佐々木教授に「気に入った内科医と共に勤務出来るなら、教授就任は前向きに善処します」とEメールを送った。長岡先生の経歴を添えて。  Eメールを開いたついでに、この前の佐々木教授のメールを開き、研修医「田中祐樹」の名前を見詰めていた。  長岡先生が了承してくれた今、大学側がそれを受け入れるかどうかにかかっている。  田中祐樹と邂逅出来るのだろうか?

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