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第四章 第11話 教授視点
午前中で手術が無事完了した。自分でも信じられないことだが、術死ナシ、術後の患者さんも容態が急変して亡くなることはなかった。成功率100%はまだ維持出来ている。
これは奇跡のようなもので、いずれはこの記録は途切れるだろう。ただ、自分の力を信じて細心の注意を払って手術をする、それだけだ。
定時に上がり、長岡先生の婚約者に会いに行くことにした。
アメリカに来た当初は出勤時、出来るだけ安いものをと思って服を買っていたのだが、お金に困らなくなった今、出来るだけ自分の好みに合ったスーツを揃えた。あれこれ店を回る趣味はないので一度気に入った店、数店で服を選ぶようにしていた。時間がないので、一回の買い物が必然的に多くなった。すると、店の態度も変わり「カガワ様にきっとお気に召されると思う服が入荷いたしましたので」という電話連絡が入ってくるようになった。一度店に足を運ばずにその店員に任せて「お勧めの服を送って下さい」と――まず、そんな顧客のワガママは聞かないだろう――と思っていたら本当に自分の趣味に合ったスーツが送られて来た時は驚いた。ある時、看護師の前で上着を脱ぐ機会があり、「うわぁ、流石はサトシ先生ですね。エルメスがお似合いです」と感心された。
顧客サービスが行き届いているな…とは思っていたが、店の名前などいちいち覚えていなかった。エルメスは知っていたが、自分の着ている服がそうだとは気付けなかった。ずっと英語読みをしていたので「ヘルメス」と思い込んでいた。
やっと取れた休みの日に、服を買いに行くのは時間の無駄だと判断していた。
アメリカで有名になるにつれ、クレジット会社もカードを向こうから送りつけてくるようになった。多分、この病院の年俸を推定したのだろう。
たまたま今日のスーツは濃紺のエルメスのスーツだったので、LAイチ味覚と値段を誇るレストランでも気後れすることはないだろうと思った。
定時5分前に店に行き、「長岡で予約が入っているはずですが…」とウエイターに聞いた。
慇懃さも店の格式に寄与しているのだろうか?丁寧に席に案内される。
店の中央階段を上ってすぐの席がウエイターの案内する席のようだった。
長岡先生と並んで男性が座っていた。ただし、テーブルの上には何も乗っていない。どうやら自分を待ってからワインを決めるという配慮らしい。
長岡先生は自分と二人きりでいる時の言動の不思議さは消えているのが遠目でも分かる。この高級そうな内装でもたじろがずにリラックスして婚約者の男性と話しているようにしか見えない。と、男性が立ち上がったのが見えた。
「香川先生ですね。初めまして。ご高名はかねがねお伺いいたしております。まだ内内では有りますが、長岡美樹子の婚約者の若松恭司と申します」
「初めまして。香川聡です。ご招待戴きまして有り難う御座います」
日本人らしく名刺を出してくる。確かに日本一の私立病院・副院長と書いてあった。聡は持ってないのでその旨を伝えた。
そこへワインリストを持ったソムリエが来た。
「何かお好きなワインはありますか?」
「いえ、特にはないです」
「では、ロマネ・コンティを。当たり年だと何年でも構わない」
無造作にそう言ってソムリエを追い払った若松恭司は先ほどの笑顔を一転させ真剣な顔をした。
――眉毛が濃くて、鼻筋が通っている。なかなかのハンサムだが、好みではないな――ふとそんなことを考えていたが、相手の顔を見て、何の話をするつもりなのか興味を持った。
「単刀直入にお聞きします。先ほど、香川先生の誘いを受けて日本に帰国するつもりだと美樹子から聞きました。先生は美樹子のことをどう思っていらっしゃいますか?」
「どう?と申しますと」
「失礼を承知で申し上げます。つまり、先生は…仕事だけでなく…そのう美樹子の人柄や容姿も好ましいと思っていらっしゃるのでは?」
「止めなさいよ。香川先生に失礼だわ」
眉間に悩ましげにシワを寄せ、婚約者の腕を掴む。婚約者の前と患者の前の態度と似ている長岡先生の態度だった。自分と居る時は挙動不審なのに、ナゼか他の人間の前では完璧な美女に戻る。
「いえ、確かに長岡先生の腕は高く買っています。感情面で申し上げれば、同僚としては大変得難い存在ではありますが、婚約者の居る女性に恋愛感情は抱いていません」
――「婚約者の居る」女性だけではなく、女性と言いたかったが初対面の相手にカムアウトする気にはなれない。眉毛の濃さといい、一直線に物事を尋ねてくるのは九州出身か?と思った。――
「本当ですか?」
本当のことなので、相手の目を覗き込んで断言する。
「はい。それに私は好きな相手が日本に居ます。今はその人のことしか…恋愛面だけに限定すれば…考えられません」
強い口調で言い切ると、若松の身体の筋肉が弛緩したのが分かった。勘繰っていたのかもしれない。
いつの間にか運ばれて来たロマネ・コンティをワインクーラーから取り出し、ウエイターを呼ばないままに、グラスにも注いでくれていた。このような店ではティスティングをさせるのだが、ウエイターがやって来ないのは若松がこの店の常連で、意思を予め通しておいたに違いないと思った。
「そうですか。それは大変失礼を…。美樹子が毎日のように先生のことを話しますし、先生は男前でいらっしゃるから、ついつい疑心暗鬼を…ご容赦下さい」
深深と頭を下げた。
「それと、お会いしたのはお願いがありまして…私も家族も美樹子との結婚を決めているのですが、御断りすると厄介な方から縁談が来ておりまして、申し訳ありませんがその件が片付くまでこの件は内緒にして戴きたいのですが…」
厄介な方、というのは多分国会議員か何かだろうか?とフト思った。
「それはいいのですが、今度日本の大学病院に招聘されるかも知れないという件は、長岡先生からお聞きになられましたか?」
「はい。」
「で、あそこの大学病院の経営実態が知りたいのです。何とかなりませんか」
「タテマエでは、何ともならないと答えなければならないのですが、今回は香川先生にもご不快な思いをさせてしまったので。こっそりと経営状況をまとめたデータをFAXします」
「FAXなのですか?」
「ええ。そちらの方が安全です。Eメールは漏洩すると厄介ですから」
「明日にでも先生の個室のFAX番号に送信します」
「でもそんなデータが…」
「ウチの病院は、省庁のキャリア官僚とも親密な関係を持っていまして。その他にも色々…まあ、ここだけの話ですが」
料理を食べながら他愛のない話をした。
「長岡先生を好きになった切っ掛け」を向こうから話し出して唖然とした。
「淑やかで女らしく上品その上、動作が優美で流れるようだったから」というものだった。
翌日若松からのFAXが届いた。大きく部外秘と書いてある書類だったが、やはり赤字部門が多い。というより、外科・内科が辛うじて黒字。緊急外来・産科・小児科は「赤字」と呼ぶよりは(経営に関して素人同然だったが)「超赤字」と言いたいようなものだった。しかも毎年赤字が増加していた。
「このままではいずれ破綻してしまう」
そう強い危惧を持った。破綻する前にすべきこと、それは無理を承知で、自分の手術の執刀数を上げて売り上げに貢献することだった。
そうでなければ、いずれ、緊急外来も産科も小児科も自分の母校の大学病院から姿を消すだろう。どれもが必要な科なので、自分の手術チームを作って日本中から患者さんを集めてみせようと思った。そうでなければ、破綻だ。
残務処理を終えて帰国の途に着いた。空港で待っていたのは、予想だにしなかった顔だった。
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