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第四章 第12話 教授視点

 助手に慌しく引き継ぎを済ませ、客観的に見て自分でなければ執刀不可能で、かつ空輸に耐えうる患者さんには事情を説明して、どうするか決めて貰った。殆どの患者が「日本に行く」と答えてくれたのは、光栄だったが。  病院側も年俸制を採用している以上、違約金を支払うことでしぶしぶ合意に至った。  長岡先生は婚約者と日本に来れば良いとアドバイスをしたのだが、「患者さんが心配です。香川先生と帰国します」と泣きそうな目で言われたので同じ飛行機に乗ることにした。  ケンともゆっくり別れの盃を交わさないままだったな…と、JALのファーストクラスの席で思っていた。長岡先生も引継ぎなどの仕事と婚約者とのデートで多忙を極めていたらしく、隣の席で熟睡している。  自分は、眠れそうに、ない。  ちなみにファーストクラスの座席に座るのは生まれて初めてだ。日本から来る時は迷いもせずにエコノミークラスだった。それがファーストクラスになったのは、長岡先生に手配を任せた。すると当たり前のように出て来たチケットがこの座席だった。彼女は飛行機=ファーストクラスと思っていたらしい。彼女の育ちの良さや性格は良く分かっている積りだったので特に異議は唱えずに乗ったが、確かに乗り心地は素晴らしい。CAもかしづくようにワインや食事を運んでくれる。  田中祐樹と会うのは、明日大学病院に行ってからのことになるな…と思っていた。年もそう変わらないのに、ポジションは雲泥の差になるわけだから妬みや嫉妬の視線を向けられることも覚悟していた。  だが、それにどう対処していいのか分からない。  とことん、恋愛の経験値のなさに嫌気がさした。ほとんど勢いで決めてしまった日本行きだが、出来るならば飛行機が引き返してくれればいいのに…とさえ思った。  無事に関西空港に着き、入国ゲートをくぐると、目の錯覚かと思ったが、本当に田中祐樹が立っていた。その横に居る小太りの男性が黒木准教授だろう。もう一人の出迎えは山本という人物が来ると聞いていたので、つい視線が泳いでしまう。心拍数も一気に上がっているだろうな…と思った。  が、元からの性格に加え、医師となってからはどんなに動揺していようと顔に出ないようになってしまっていた。多分、自分は普通の顔をしている…と信じたい。  祐樹は一瞬怪訝そうなな表情を浮かべたものの「研修医の田中祐樹です」と初対面の挨拶をしてきた。それはそうだろう。祐樹は自分のことなど知らないはずなのだから。ただ、何故怪訝な表情をしていたのかは分からない。それよりも嫉妬や憎悪の眼差しがなかったのが嬉しかった。  思いがけない邂逅で喉が渇いていることに気付く。すると、祐樹が「コーヒーでも…」と提案した。もちろん、向こうは新任教授に対する心配りだけで、他の人間が来ても同じセリフを言っているに違いない。  が、自分にとっては少しでも彼と居られることが嬉しかった。空港の向かいに有るホテルのティールームで他愛のない話をしている時も、つい田中祐樹の顔を見てしまいそうになるのを必死で我慢していた。  彼は一方的に離れた時とほとんど変わっていない。少し落ち着いた印象をまとっているだけだった。大学側の配慮だろうか、メルセデスに乗る時も、運転席に座る彼の背中が見ていたくて、後部座席の一番良い場所を長岡先生に譲った。自分よりも肩幅のある彼の肩をずっと見ていた。  大学病院に着き、黒木准教授に連れられてまずは齋藤医学部長に挨拶に行った。歓迎の挨拶と招聘を受けてくれたことに対する謝意を述べられた。そして、黒木准教授に席を外すように命じた。別室で待っている長岡先生の相手をしてくるようにと。  黒木准教授が退室すると、しばらくしてから咳払いをして口を開いた。 「ここだけの話だがね。君を招聘したのは私ということになっている。君は佐々木前教授から招聘を持ちかけられただろうが、佐々木前教授は、黒木准教授を指導医として完全に育てられなかったことに忸怩たる気持ちを持っている。『もう少し退官の日が遅ければ』と言っておったよ。  そして、聞こえてきたのが本学出身の君のアメリカでの活躍だ。佐々木前教授は、黒木准教授を育てる役目を君に託した。だが、それでは黒木君の立場がない。それで私が横槍を入れたという形になっているからその積りで対応して欲しい。」  佐々木教授の個人のメールアドレスは知っている。御礼がてら訪ねて行こうと思った。 「分かりました」  そう言うと、齋藤医学部長は安堵の表情を浮かべた。 「煙草を吸ってもいいかね?」  そういえば高級そうな執務机の上にクリスタルの灰皿が有る。聡はスモーカーではないが、喫煙者の喫煙の自由まで奪うつもりはない。 「どうぞ」  そう言うと、高価そうなライターで火を点けた。 「君の経歴を見たところ、大学病院での勤務経験はなかったな…」 「はい」 「医学部というところは、学生の視点で見るのと、実際に勤務してみるとでは大違いだ。些細なことで足を引っ張る人間が出てくる。君は最年少の教授だ。やっかみも酷いだろう。それに負けないように手術はもちろんだが、言動にもくれぐれも気をつけたまえ」 「はい。齋藤医学部長のお顔に泥を塗らないように慎みたいと思います。しかし、私はアメリカ滞在中のように…日本では特診患者と言うのですね…を優先して手術する気は御座いません。手術の優先順位が高い患者さんから行っていく積もりです」  齋藤医学部長の口から煙草が落ちた。 「何故だね。特診患者の方が病院の利益になる」 「病院の利益は充分考えました。ただ、特診患者の場合、大学病院の会計に載らない金銭の授与が当たり前のように行われています。そういう不透明な金銭授与をなくし、堂々とレセプト請求が出来る手術だけを行いたいのです。現在、医療に対する不信感がこの国にも起こっています。透明性のある会計の方がこの病院の評価を上げることに繋がると思います」 「……それも一理あるな……君は君のやり方でして見給え」 「有り難う御座います」  齋藤医学部長はそうは言ってくれたものの、本当に心の中ではどう思っているのかは分からない。ただ、これだけ長く大学に勤務し外科教授を経て医学部長まで上り詰めた人物だ。相当元患者からは「寸志」を受け取っているはずだと判断した。  病院長は充分過ぎるほどに蓄財した。だから許してくれたのではないか…と思った。  齋藤医学部長は卓上の呼び鈴を鳴らし、秘書を呼んだ。 「話は終った。黒木君と長岡先生を呼び給え。紅茶が冷めてしまったので取り替えるように」  そう言って秘書を下がらせると黒木先生と長岡先生が入れ替わりのように入室してきた。 「ところで、長岡先生は、ご結婚のご予定などはありますか…いや、内科に無理を言った手前、すぐお辞めになるのは困りますから」  長岡先生は縋るような目で聡を見詰める。婚約者の件は黙っておいて欲しいということだろうと思った。 「近々はありえません」  そう助け舟を出した時に秘書が紅茶を持って入室してきた。 「そうですか。成る程、それでご一緒に帰国なさったのですね」 ――何が「成る程、それで」なのか指示内容が分からなかったので曖昧に頷いた――  秘書は一瞬動きを止めて自分の顔を長岡先生の顔をマジマジと見ていた。医学部長の秘書に成るくらいの優秀な秘書なのに、どうして不躾に顔を見られるのか分からなかった。

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