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第四章 第13話 教授視点
「心臓っ!再鼓動しませんっ!」
女性の緊迫した声がする。
「強心剤注入」
指示を出してからちらりと心電図に目をやる。緑色の平坦なライン。注入されてもそれは変わらない。
「電気カウンター」
患者の身体が仰け反る。意志の力ではなく電気の力で。
「駄目です。再鼓動なしっ!」
女性の声がさらに緊迫度を帯びる。
「諦めるな!諦めるとそこから一歩も進めない」
そう叫んでいる自分がいた。
と、そこで目が覚めた。身体中に冷や汗をかいているのを自覚した。執刀医になってから繰り返し見た悪夢。ここはどこだと辺りを見回して思い出す。一瞬にして思い出す。ホテルの一室だった。
斉藤医学部長が歓迎の宴を開いてくれると言うのを固辞して大学病院を辞した。長岡先生となるべく京都らしい店に入り食事を済ませて別れた。彼女は、日本に何個あるか正確な数字はご家族も把握していないらしい婚約者の別荘というか別宅のマンションに泊まると言っていた。
自分は――帰国前の激務で部屋探しなどは後回しにしていた――部屋が見つかるまでの仮住まいのホテルの一室に辿り着いてシャワーを浴びて眠りについたことまでは覚えていた。
そしてこの悪夢だ。
アメリカ時代「天狗になっている」という陰口を叩かれたことも知っていた。が、患者の手術の最終段階で「再鼓動しない」「手術中に取り返しのつかないミスをした」などの悪夢は毎晩のように見ていた。その悪夢を現実にさせないようにするには自分の手技を磨き、あらゆる場面をシュミレートしてどうすれば回避出来るのかをあらかじめ考えておくしかない。
自分とて、神ではないのだからいつかは失敗する。幸いなことに「いつか」はまだ来ていないだけだと思っていた。その潜在意識の恐怖が悪夢となって現れるに違いない。
ざっとシャワーを浴び、ベッドに横たわる。枕元のデジタル時計は午前3時11分だった。
1人寝は慣れていたが、旅の疲れなのか田中祐樹に会ったことなのか、環境の激変からなのか中々寝付かれない。
こういう時に隣に人のぬくもりを肌で感じたら眠りの国に入っていけるのだろうか…と思った瞬間、空港まで迎えに来た――多分業務命令だろうが――田中祐樹の顔を思い出した。そして、車の座席越しに見た彼の肩。本当に日本に帰ってきたのだな…と思う。
内心は分からないが、空港で初めて挨拶をした時に嫉妬ややっかみのない笑顔が思い出される。
「諦めたら終り」先ほど自分が夢の中で叫んでいた言葉が不意によみがえった。祐樹の顔を思い浮かべたら眠れそうな気持ちになった。
「恋人はいるのだろうか…」
それが眠りに入る直前の思考だった。
時差ボケが治っていないらしく早朝に目覚めた。ホテルのモーニングサービスで朝食を済ませると早速大学病院に出勤した。
斉藤医学部長の早手回しなのか、昨日渡されたスタッフ用のIDカードを提示して病院に入る。教授室も自分用に誂えられていた。早速パソコンを起動させ、病院内LANに接続する。迷うことなく勤務シフトを呼び出し田中祐樹の勤務実態をまず把握した。
研修医にしては異例のことだが、宿直をしていた気配がない。
毎日逢いたい恋人でもいるのだろうか…。と呆然とモニターを見詰める。研修医が宿直をこれだけしていないのは珍しい。自分が大学時代に先輩だった人はほとんど家に帰る暇がないくらい宿直があると愚痴っていたのを思い出す。
落ち込んだ気分でいた。が、時計を見て我に返った。
カンファレンスルームに予定時刻ピッタリに入って行く。盛大な拍手で迎えられたがお義理だろう。田中祐樹の顔を無意識に捜していることに気付く。
ああ、あそこにいるな…とちらりと見た。
自分のビジョンを話すと、水を打ったように静かになった。
手術のクオリティを落とさずに数を増やすと宣言したのだから予想されたリアクションだ。ただ、こうしなければ赤字部門は閉鎖の憂き目に遭う。自分が何とかしなければならない。
1人挙手した人間が居た。常に視界の入るようにしていたので、わざわざ確かめなくても田中祐樹だと分かった。
その瞳はいつもよりも鋭かった。その目つきに背中に鳥肌が立つのが分かる。決して反論が恐かったわけではない。反対があって当たり前の提案だった。
その発言者が田中祐樹で、しかも自分を真っ直ぐに見詰めている。瞳をしっかりと合わせたのは初めてだ。
その結果が背中の鳥肌だった。
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