86 / 403
第四章 第14話 教授視点
田中祐樹が発言した内容は医療従事者としては至極真っ当なものだった。
もし、彼ではなく他の人間が言い出したのなら、もっと温和に諭すことも出来ただろう。
『病院経営の視点から見ても手術数を増やすことは必要だ。そうでなければ産科・婦人科緊急外来といった経費が掛かり過ぎる科が――絶対必要であるにも関わらず――閉鎖の憂き目に遭ってしまう。そのためにも大学病院に収益の見込める科として自分の手術を役立てたい』
そのことを諄々と述べるくらいの思慮分別は自分にも有った。
が、彼の射抜くような怒りの瞳が、理性よりも感情に火を点ける。そんなに手術増加を嫌がるのは自分の業務量をこれ以上増やさないためかと勘繰ってしまう。
――宿直もしていないクセに――
公私混同だとは分かっていたが、思いのままに発言してしまった。
他の部下が大勢聞いているということも一瞬忘却の彼方だった。こんなに感情に任せて発言したのは生まれて初めてだった。
彼の怜悧な眼差しが、瞋恚に燃えて真っ直ぐ自分を見ている。背筋がゾクゾクした。戦慄からか歓喜からか…。
フト我に返ったのは、長岡先生の紹介が終った頃だった。
自室に戻り、自己嫌悪に陥る。
田中祐樹の聡への心証は最悪になったはずだ。
もうこうなればとことんまで嫌われてやれ…という自暴自棄な思考さえ生まれる。
彼は宿直業務をしていない。恋人との逢瀬が仕事より重要ということだろうか。では、その恋人と逢えなくしてしまうのはどうだろう?
心臓外科のシフト表はもう決まっているので動かせない。フト、救急救命室のことを思い出した。
自分も医学部の学生だった頃、手技を磨きたくてあそこに入り浸っていた。
あらかじめ手術の決まっているこちらの科とは違い、向こうは戦場だ。北教授は臨床よりも論文執筆に重きを置く学者肌の人間なので大学病院特有の縄張り意識も希薄だ。
緊急治療室の阿部師長が、今も配置換えナシで留まっていれば、田中祐樹を指導してくれるだろう。
彼女は、かつて「グレイス」で田中祐樹と会ってしまった次の日にこう指摘してきた人物だ。医師への観察眼は信頼に値する。
「先生、何かありましたか?体調不良ではなく精神的にショックなことでも?」
それに、かつて見た田中祐樹の鮮やかなメス捌きも脳裏に刻印されている。研修医なので、手術の執刀はしていないハズだ。メス捌きも職人技と良く似ている。いくら才能があっても研鑽を怠っていればメスは鈍る。
北教授に了解を取ってから――案の定、北教授は快諾して下さった――田中祐樹を呼び出す。
遠慮がちなノックと共に名乗りを上げた彼に、どういう顔をして接すれば良いのか分からなかった。表情の選択に困り果て、しばらく迷っていた。が、いつもの顔で乗り切ることにした。
初めての二人きり…それも敵愾心を持っているであろう田中祐樹…その対面はどんな困難な手術の時よりも緊張していた。
入室の許可を受けて入って来た彼は先ほどの怒りの余韻かいつもより鋭い目をしていた。
その目つきから瞳を逸らせない自分に気付く。椅子を勧めるなど、常識的な対応が出来なかった。
心拍数も上がっているはずだ。
緊急外来の宿直の件も聡が拍子抜けするほどあっさりと呑んだ。もっと頑強な抵抗が有ると予想していたので…。
田中祐樹と話していると、心が浮遊するような感じがする。が、それを彼に見せてはいけないと自制が働くが、自分の両手が震えていることに気付いた。
――震えるな!――
そう思うと余計に震えてしまう。精神的なものだと思う。さり気無くデスクに両手をついて心因性の震えを誤魔化すだけが精一杯だった。
友好的とはお世辞にも言えない対面が終った後、――彼は私に憎悪を抱いているだろうな――と絶望的な気分に見舞われた。
仕事の増加、恋人――いるのだろう――との強制的な引き裂き、そして自分の高圧的な態度、彼が立腹しているのは当たり前だと思った。
退室の時、――彼が職場であるということをわきまえていなければ、力一杯ドアを閉めるだろう――まさかそこまで常識が欠けているとは思わないので、ドアの前で会釈してそそくさと去って行くだろうと思っていた。
が、予測を裏切って、聡に深深と一礼した。
意外な行動に、更に心拍数が上がった。
ともだちにシェアしよう!