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第四章 第15話 教授視点

 田中祐樹が出て行ってからもしばらくは心臓の音が耳に響いていた。隣室に控えていた秘書――実務能力を考慮して佐々木前教授の決して若くはない秘書をそのまま貰い受けた。斉藤医学部長はご令嬢を推薦したが、彼女が学生であることや秘書経験がないことから固辞した――が咳払いをしたことで我に返った。 「そろそろ、黒木准教授がご挨拶に参られる時間です」  彼女は穏やかに言い、自分の部屋に戻った。秘書の部屋には小さいながらも給湯室がある。すぐにコーヒーの良い香りが漂ってきた。  田中祐樹を呼び出している間は部屋から出ないで欲しいと頼んでいたのは正解だったな…と思った。  あまり女性と接したことはないが、敏感さにかけては男性よりも優れていると言っていたのはLA時代の友人ケンだった。  穏やかなノックの音がして黒木准教授が入室してきた。  日本でも最近は「メタボリック症候群」と名付けられると聞いている小太りの身体の彼だったが、身のこなしは俊敏で無駄がない。入室してきた様子、応接セットに座るように促し、それに応える動作。その全ての動きは滑らかかつ優雅といって良いほどの動きだ。 ――教授室でこういう動作をする人間は、手術室ではもっと繊細な動作をするだろう――と踏んだ。こういうことは肥っているとか、痩せているとかは関係ないことも経験上知っていた。  そういえば田中祐樹も動作はキビキビしていて無駄がなかったな…と今頃になって脳にインプットされている情報に解析を加えた。    とにかくこの人は自分の手術に使えると判断した。  ただ、この人は順送りで行けば、佐々木前教授の跡を継いでこの部屋を使っていたかも知れない人物だ。特に年齢からして内心では愉快であるはずがない。  なので、田中祐樹に言いたかったこと――大学病院の不採算部門は閉鎖される恐れがあり、そうならないためにも自分がアメリカから帰国したということ――を告げた。  黒木准教授はしばらく考え込んでいる様子で沈黙していた。 「明日の教授の手術次第で去就を決めます」  それだけ言って秘書が魔法のように差し出したコーヒーを太い指で繊細に飲み、辞去の挨拶をすると教授室を静かに出て行った。もちろん、礼儀にかなった作法だということは分かった。 ――自分の手術には自信が有ったが、手術はチームワークだ。執刀医がいくら優れていても道具出しの看護師と呼吸が合わなければ、また助手が術野に入ってくるようなことが有れば成功は覚束ない――それは、ゴールドスミス博士の言葉だった。 「香川教授、山本助手がお見えです」  自分のスタッフとなる予定の人物とはなるべく早く――出来れば一対一で――会っておきたかった。  入室を許可する。山本助手も黒木准教授と同じような体型だった。それは別に構わない。   が、黒木准教授のような静かな物腰ではなかった。自己紹介は阿諛追従混じり――としか聞こえなかった――は良いとして、勧めた応接セットに座る動作も、秘書が入れてくれたコーヒーを飲む動作も大雑把な性格が垣間見える。年若い自分を軽んじてこの場ではワザと振舞っているのかも知れないが。  コーヒーを飲み終わり、コーヒー皿にカップを下ろそうとして目測を誤ったのか、スプーンの上に置いてしまい大きな音がした。一部始終を見ていたのでこれらがこの人の生まれつきの性格から来るものだと判断した。 ――この人は手術には使えない。明日の手術は外れて貰おう――  そう思った。しばらくの間沈黙がたゆたう。自分では喜怒哀楽をそれなりに表現しているハズなのに、アメリカ時代、「クール・ビ―ティ」だとからかった。ケンが言うのなら多分そうなのだろう。案の定、山本助手は居心地が悪そうだ。退出の許可を求めたので頷きで返した。  手術は外科の医師だけで行うものではない。麻酔科の医師や各種の技師、そして看護師とのチームワーク的な作業だ。この病院に来て二日目の自分にとってはこの人選は頭痛の種だ。斉藤医学部長に相談してみようと思ったが、お嬢様の件で断った直後だ。敷居が高い。  どうしたものかと思案していると、先ほどのコーヒー茶碗を下げに秘書が入って来た。もちろん、声を掛けてから。  佐々木前教授の秘書だった彼女なら自分が求めている情報を知っていてもおかしくない。  案の定、彼女は、麻酔医ならこの先生、と立て板に水で教えてくれた。ついでに言う。 「斉藤医学部長が彼らのスケジュールは香川教授のために空けていますよ」  完全に読まれていたのか…と苦笑した。が、明日の患者さんはどこぞの大富豪だ。聡がこの病院に転職すると聞いて、主治医(といっても内科だが)を引き連れ自家用ジェット機で来日した患者だ。齋藤先生の意気込みも分からないではないが。今頃はその主治医が長岡先生と話し合っているに違いない。何と言っても明日の手術の内科責任者は長岡先生なのだから。  必要書類を書き上げると、長岡先生の意見を聞き――主治医は特別室の主人の病室に詰めているらしい――明日の手術を予定通り行う最終決定をし、秘書に関係者に配布するように指示して定宿にしているホテルに戻った。  手術の時間ぴったりに準備万端整えて、手術室の足で操作する自動ドアを開ける。  目の隅に田中祐樹の姿を認めた。患者の下に歩んでいく。  手術が始まる前――敬虔なクリスチャンが神の名を唱えるように聡はアメリカで祐樹の名前を唱えてきた――が、今は実物が側に居る。御まじないのように祐樹を一瞬凝視し、その後、手術に没頭した。

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