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第四章 第16話 教授視点

 患者さんの心臓が再鼓動し、手術室には安堵の溜め息が充満した。  自分もも集中力が弛緩していく心地よさを感じていた。手術が長引くほど患者さんの体力も消耗する。短いに越したことはない。今回も予定した時間内に無事終了することが出来た。  患者さんへの注視を解くと、無意識にこの手術室にいる田中祐樹の存在を探してしまう。もとよりそんなに大きな室内ではない。すぐに見つかった。彼も手術には彼なりに緊張していたのか少し柔らかな瞳で時計を見ていた。その手術用マスクに覆われているとはいえ、彼の温和な表情をもう少し見ていたかった。が、視線に気付いたのかこちらに顔を向けた。  彼も手術スタッフの一員だ。共に手術の一先ずの成功――この後容態急変という事態も可能性としては残っている――を共に祝っても良いハズだ、しかし、視線を絡めることが居たたまれなかった。そそくさと視線を別のところに移した。どうせ彼には嫌われているハズだ。  手術が無事終われば執刀医の出番はない。  専用の準備室でスーツに着替え自分の部屋へ帰ろうとすると、斉藤医学部長に呼び止められた。 「いやぁ、香川教授。画像では度々拝見しておったが、やはり実際に見ると水際立ったオペだねぇ。少し私の部屋に寄らないか?」  疲れていたが、医学部長の誘いだ。ムゲには断れなかった。  流石は医学部長室だ。自分の部屋よりも広く本棚には自分が読みたいと思っていた専門書が無造作に並べられている。もっとも、読んだ形跡は無かったが。  応接ソファーに着座するように勧められ、革張りのソファーに座った。若い女性――恐らく秘書だろう――が薫り高いコーヒーを運んできた。コーヒーカップも手が込んでいる。白地に上品なピンクの薔薇が描かれている。添えられた砂糖壺やミルクソーサーにも同じ模様が入っていた。  疲れていたので、コーヒーに砂糖を入れていると僭越にも秘書が口を挟んできた。 「香川教授はやはり心に決めた方がいらっしゃるのですか?」 「ええ、居ますが…」  脳裏に田中祐樹の顔を思い浮かべながら最小限の返事を返す。  上司である斉藤医学部長が黙っている隙に、秘書が言葉を発するのはビジネスマナーを疑う。つい、冷淡な口調で顔も見ずに言った。その女性は「そうですか…」と悄然さをはらんだ小さな声で言った。 「娘が失礼なことを聞いて申し訳ない…」  斉藤医学部長が取り成すように言った。 「ご令嬢でいらっしゃいましたか。申し訳ありません。秘書の方とばかり…」  形だけ丁重に頭を下げると、目尻に涙の粒を真珠のように湛え彼女は一礼して部屋を静かに出て行った。 「娘がどうしても…と言うもので、手術後の疲れをおして来て貰ったが…。『君には婚約者が居る』と言っても聞く耳を持たなかった。自宅に持ち帰った君の資料と写真を見てから、会わせろと言い張ってな」 ――婚約者とは?誰のことだ?――と思った。が、手術の精神的・肉体的疲労に加え、知らなかったとはいえ斉藤医学部長の令嬢を冷淡に扱い、あまつさえ女性に涙を零させてしまった。  身体中が疲労を訴えていた。これ以上たとえ上司であっても口も利きたくないほどに。 「御用がお済みでしたら、休息を取りたいのですが…」  控えめに言った。 「おお、済まない。今日のオペは感動した。これからもこの調子で頼む」  年齢を感じさせない動作で立ち上がり、自分ごときのためにドアまで開けて下さった。多分無駄足を踏ませた償いのつもりだろう。  自分の部屋に帰ると、結局、医学部長室で飲みそこなったコーヒーを秘書が用意してくれていた。  砂糖を多めに入れ、人心地着くと、「婚約者」の文字が不意に脳裏に浮かんだ。  大学病院は噂の伝播は早い上、仮に真実の噂であっても10倍くらい大きくなる。 ――自分の婚約者と噂されているのは長岡先生か?――  というより彼女以外に親しい女性はこの病院では居ない。自分の秘書は確か60代半ばでしかも既婚者だ。そういえば病院長は長岡先生にも「結婚のご予定は?」と聞いていたな…と思い出す。自分も助け舟を出した。それが噂の切っ掛けになったのだろう。  この病院で長岡先生との件が噂になっているのは間違いない。が、田中祐樹の耳にだけは入って欲しくないと思った。それも切実に。  出勤して真っ先にする日課が出来た。病院LANに接続して昨夜の勤務状況をチェックすることだった。田中祐樹が病院を抜け出していないか確かめるために。  パソコンの起動は一分とはかからないし、パスワード入力など数秒だ。その後LANに入るのも一分くらいだろうか?その時間は息を詰めて待つ。  そして、病院内から出ていないというデータを見た瞬間、安堵の息を吐いていた。  その後仕事に取り掛かる。そんな日が数日過ぎた頃、長岡先生が淡々とオドオドを無理やりカクテルしたような感じの声で電話をしてきた。  「お時間、戴けませんか?」

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