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第四章 第17話 教授視点

「あの、ご迷惑でなければ…いえ、迷惑ですよ…ね…」  また自己否定の螺旋に入りそうな長岡先生は、多分医局から電話してきているのだろう。背後に人の声がする。彼女も役付きになったので個室は与えられているハズだが。  幸い今日は土曜日だ。手術は緊急以外には行われない。長岡先生の奇跡的な投薬のお陰で土日はキチンと休めるシステムになりつつある。  今日出勤して来たのは、患者さんの容態をこの目で確かめるためという大義名分だったが、感情面を誤魔化すことは出来ない。田中祐樹がキチンと救急外来の仕事をこなしているかを確認したかったからだ。 「いえ、迷惑ではありませんよ。今、手が空いていますので良ければ部屋にいらして下さい」  そう言って電話を切った。  患者のデータを分析していると、長岡先生の「あるかなきかの」とでも表現したいノックの音が聞こえた。彼女の自分に対する動作を見ていると高校時代に習った古文の単語が頭をよぎる。自分以外の人間が居る前では、堂々としたキャリアと美貌を持つ完璧な女性なのだが…。  入室を促す。ちなみに土日なので秘書は休みだ。 「コーヒーでも飲みますか?」  秘書を呼ぶベルを押さずに立ち上がりかけた。ドア近くに居た長岡先生はまるで小学生のように頭全体を振って拒否を表現する。 「今日は秘書の方、お休みですよね。先生、いえ、教授にそんな畏れ多いことして頂くわけには」  オロオロとした口調と確固とした表情がミスマッチだ。聡も飲みたいわけではなかったので応接ソファーに座るように促した。彼女が恐縮したようにうやうやしく着座したのを見て、自分のデスクから立ち上がり、正面に座った。 「話というのは患者さんのことですか?」 「患者」というキーワードで彼女は怜悧な表情を浮かべたが、すぐに途方に暮れた顔をする。母親からはぐれた迷子のような顔。 「いえ、一身上のことなのですが。こんなことをご相談するのも…」  自己否定の渦に巻き込まれて行くことが安易に予測出来たので話を遮る。 「全く構いません。長岡先生にはアメリカ時代からずっとお世話になっていますから」  彼女の顔が明るくなった。ジツに分かりやすい。幼稚園児と先生のようだな…とフト思う。が、イマドキの幼稚園児はもっと自己主張が激しいのではないか?とも思った。子供に縁がないのであくまでもイメージだが。 「あのう…婚約指輪ってどこに売っているかご存知ですか?」  思いもかけないことを言われ、絶句してしまった。 「指輪を売っているのは宝石店ですよね。でも婚約指輪の専門店をネットで検索したのですが、良く分からなくて…」 「宝石店で売っていると思いますよ。婚約指輪というものは、指輪の中でもダイアモンドなどが付いている高価な指輪のことで固有名詞ではありません」  ナゼこんな会話をしているのか分からなかったが…どうやら彼女の真剣さに巻き込まれたようだ。  自分の乏しい知識の中で答える。自分も宝石店とは縁がないが「月給の三か月分が相場だ」と飛行機の中での暇つぶしに読んだいつぞやの雑誌の知識を総動員して答えた。 「岩松氏と買いに行かないのですか?」  彼女の婚約者の名前を挙げた。この際、自分と彼女が婚約者であるという病院内の噂を伝えるのは憚られた。言ってしまうと、彼女の医学的に「は」優秀な頭脳がパソコンのように全部壊れかねないような気がしたので。しかも修理不可能なレベルに。 「彼は、『君が好きな指輪を買ったらいい』と申しまして、カードだけ預けてくれました。何かと忙しいようで…」  そう言って、シャネルの財布から黒色に渋く光るクレジットカードを取り出す。確か、会員になる資格が大変厳しいカードだった。聡が持っているダイナーズカードより、もっとグレードが高いハズだった。 「そのカードでしたら、どの宝石店でどんな宝石でも買えますよ。ティファニーにでも行かれてはどうですか?」  自分が知っている唯一の高級宝石店の名前だった。  彼女は途方に暮れたような表情をした。 「ニューヨークに買いに行かなければならないのですか…」  肩を落として言った。ナゼ、NYが出て来たのか分からない。 「どうしてそう思うのですか?」  彼女の世間知らずっぷりは自分が一番良く知っていると思う。こうなったら乗りかかった船だという気がしてきた。差し迫った用事がない以上、最後まで話に付き合うことにした。  田中祐樹が土曜日も真面目に仕事に励んでいることを知って気持ちに余裕も有ったので。 「ティファニーって、確かNYの宝石屋さんですよね。映画でしか観たことはないのですが…」  あくまでも真剣な表情だ。思い詰めていると言っていいくらいに。 「あれは、かなり昔の映画です。今は世界中どこでも支店が有りますよ。近くの百貨店でも支店を見かけたような」  服を買いに行った時、見た覚えがある。全く興味はなかったが一度見たことはほぼ頭の中に蓄積していく。 「京都に百貨店があったのですか?」 「ありますよ。もちろん。JRとか阪急の駅前に……」  唖然として答えた。知らなかったのだろうか? 「私、ここは御所と神社仏閣しかないものだとばかり…」  今までどこで買い物をしていたのか聞くのが恐くなった。彼女の視界には百貨店はないものとされていたらしかった。  こうなったら彼女の保護者役をするしかないと思った。少なくとも、NYに行かれるよりはマシだ。彼女なら本当に行きかねないのだから。長岡先生が休暇を取ると医局中が迷惑する。 「出来れば、一緒に百貨店まで行きましょうか」  勢いでそう言った。  彼女は母親に縋る幼女のような瞳で自分を見ている。  黒色のカードに見合うだけのダイアの指輪を一緒に選ぶしかないな…と思った。  百貨店に着くと、三歩下がって長岡先生が付いて来る。ドラマで観た使用人のようだった。職場ではないのだから並んで歩けば良いと思ったが、また「畏れ多い」などと言い出すのを危惧して好きにさせた。気分はすっかり引率する幼稚園の先生だった。  宝石店に入ると――彼女は初めてらしかった――手ごろな指輪を出して貰っていた。  2カラット以上が彼女の「手ごろ」らしい。聡が見ても綺麗だな…と思う。  長岡先生は、燦然と眩い光を放つ宝石に夢中になったらしく、自分へのいつもの態度を忘却していた。 「これと、これ…どちらが似合いますか?」  などとアドバイスを求めてくる。適当に答えながら、「こういうカッティングはどうやったら可能なのだろうか」と職業的意識で切断面を眺めていた。 「教授はこちらがオススメなのですね。ではこれにします」  その声に我に帰ると、3カラットVVS1という紙片が付いた大きなダイアモンドの指輪を店員に差し出して、「これに決めたわ。包んで頂戴」と言い、カードを渡している長岡先生の姿があった。  自分とは関わりがないので好きにさせた。  それよりも気になるのは間近に迫った教授総回診だった。田中祐樹も当然参加するだろうから。

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