「このダイアモンドはこのカードに相応しいエクゼクティブな方にこそ付けて戴きたい指輪ですわ。我が社としても、このグレードのカラーとカットは本店が独占していて日本に入ってくることはごくごく稀なリングです」 「本店が独占しているってどういうことなのかしら？」 　優美に首をかしげて長岡先生が尋ねていた。 「こちらだけのお話と言うことで…。会社の方針ですの。最上のカラーと最高のカットはやはり本国のクライアント様優先で回すのです。日本支社にこれだけのランクのものはなかなか入って来ないのです。岩松様はとてもラッキーな方ですわ」 　カードの署名が婚約者名義だったため固有名詞も当然そうだと思い込んで店員は小声で話していた。そして当然事情を知らない店員は自分に透き通った空の色を思わせる宝石入れを渡してくれた。 　そういえば、長岡先生も店に入って、宝石を見てからは「自分」に対する態度ではなく、「彼女が他に人間に対する態度」で接していたな…と思った。多分、ダイアモンドを見てそちらに注意が向けられたに違いない。自分としては一流宝石店で、遠慮モード全開の長岡先生の態度を取られたのではたまったものではないので…大歓迎だったが。 　店員から渡された小箱を長岡先生に渡した。傍目から見ると、「婚約指輪を婚約者に渡す男性」と見えたことだろう。 　しかし、自分が唯一惹かれている人間は田中祐樹だった。 　長岡先生は確かに有能な内科医だが、彼女に婚約者が居る。それを差し置いても今までの自分に欠けていたのは「明るさ」だった。彼女は仕事上とても信頼に値するが、基本的には他人に依存するタイプの人間だ。自分と同じく。 　 　自分のこれまでの人生――他人から見れば順風満帆に見えるだろうが――は、自分の関わった人が皆不幸になるということだった。田中祐樹には、彼の生命力というか…持ち前の明るさでそんな自分の過去の人生経験を吹き飛ばしてくれそうだった。 　長岡先生は持ち前の天真爛漫さと育ちの良さがあり、そして財力も人間的魅力もたっぷり持っている婚約者の岩松氏の庇護で不幸になるとは思えなかったが…。 　どうやって田中祐樹を振り向かせたらいいか分からない。 　それが一番の悩みだった。 「付き添って下さって本当に有り難うございます。お礼にお茶でも如何ですか？」 　長岡先生が宝石店の余韻が抜けないのか、「自分仕様以外」の口調で言った。断る筋合いもないので承諾する。 　百貨店内の喫茶店でコーヒーでも飲むのかと思っていたら、彼女は百貨店を出て、タクシーを優雅に止めた。 「Ｇホテルまでお願いします」 　事も無げに言う。ＪＲ京都駅に隣接している高級ホテルだ。 　タクシーの中で長岡先生は我に返ったらしく、いつもの「自分仕様」の言葉使いに戻る。 「申し訳ありません」言葉のループだ。 「それはいいですから…」 　苦笑してタクシーの車窓から京都の街を見るともなしに眺めていた。 　今頃、田中祐樹は曜日からして、開店休業状態の――彼が受け持っている患者さんは１人である――外科ではなく、救急救命室だろうな…と思う。 　彼の受け持ち患者さんを調べてみたことがあった。重篤ですぐにでも手術が必要なことも分かった。 　普通、付き合っている人がいると、金曜日か土曜日の…そして日曜日の日中にデートをするだろう。明日も病院に行って勤務実態を確かめようと思った。 　Ｇホテルのティルームに入って行くと――長岡先生は三歩後を歩いて来る――ウエイターが恭しく迎えてくれた。服装などで差別はしないというホテル業界のタテマエとは裏腹に、長岡先生のシャネルスーツと手にしたティファニーの紙袋のせいだろうが…かなりの上席を用意された。アメリカンテイストの落ち着いた空間だ。 　対面して座り、注文したコーヒーを待っていると、複数の男女から声を掛けられた。 「香川教授、ご活躍はかねがね。私もその内お世話になると思います」 　異口同音に言ってから、長岡先生が自分の隣席に置いているティファニーの紙袋を意味有りげに眺めて去っていくのが分かった。見知った顔もあり、知らない顔もあったが、丁寧に挨拶する。雑誌などで自分の帰国が取り上げられていることは知っていた。恐らくそのせいだろう。この街は良い意味でも悪い意味でも人間関係が緊密だ。特に富裕層は。 　折角、田中祐樹と再び接点が出来るという理由で日本に帰国しただけに、こう着状態は精神衛生上悪い。 　どうしたものか…と思案した。藁にも縋る思いで――というと彼女に悪いが、彼女は婚約者を獲得した実績が有る――。 「失礼ですが、どうやって岩松氏とお知り合いになって婚約までなされたのですか？」 　こういった自分とは関係ない話しには長岡先生もテキパキと答えてくれた。 「とある開業医師とその関係者のみに招待状が来るパーティで、です。父の代理で出席したところ、彼に話しかけられ、会話が進んで行くうちに携帯の番号を渡されました。話が面白かったので私から携帯に電話したのが馴れ初めです」 　携帯電話の番号…か。と思った。当然、上司として田中祐樹の番号は把握している。 　勿論、かけてみたことはない。自分には掛ける勇気も用事もなかった。 　フト携帯電話の番号を渡してみようか…と思った。 　 　日曜日も、仕事がてら出勤した。出勤後一番にすることは決まりきっていた。 　パソコンの画面表示の遅さにイライラした。――といっても、パソコンが壊れているわけではないのは百も承知だ。―― 　息を詰めて見ていると、田中祐樹はずっと病院で勤務している。 　恋人の気配は全くないことに心の底から安堵した。といっても、自分と付き合ってくれるかは別次元の話だということは百も承知していた。 　明日は、教授総回診だ。 　大名行列のような権威の象徴としてのそれは全く興味はなかったが、患者さんからすると、教授に診てもらうというのは一種の精神安定になると思った。 　自分の部屋にも患者さんのデータはあるが、電子カルテだ。紙のカルテは医局に置いてある。もう一度検討を加えたかった。教授が医局に行くと医師達が緊張すると予想したが、今日は日曜日だ。そんなに医師が居そうにない。医局に下りて行った。ドアを開けようとした瞬間、自分の名前が聞こえてきた。それも悪意を丸出しにした声だったので、開けるのを止めてそっと耳を澄ませた。 　盗み聞きは悪趣味だとは分かっていたが。