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第四章 第19話 教授視点

 他の医局なら立ち聞きなど出来なかっただろう。看護師や医師が慌しく出入りするので。  特に、現在田中祐樹が勤務しているハズの救急救命室などは人の動きが慌しいハズだ。  しかし、ここは「心臓外科」だ。長岡先生の天才的とも言える投薬のせいで患者の急変はほとんどない。ナース・コールが鳴っても看護師が適切に処置し、医師の出番はないことが多いし、医師が呼ばれる事態になってもナースからの電話でだろう。電話の音さえ注意しておけば室内からの出てくる時は分かるハズだ。  ドアノブに手を掛け誰かが通りかかったら「入室するのだな」と思わせるような体勢で室内の声に耳を澄ました。  話しているのは数人らしい。 「香川教授も天才だの、ウチの看板だのって噂されて天狗になっているんじゃないか?」 「長岡先生を招聘したのだって公私混同だよな…。いくら婚約者と離れているのが寂しいからってウチの大学に呼ぶことはないだろうよ…。ま、そのお陰で斉藤医学部長の令嬢志乃様との結婚話が潰れたのは不幸中の幸いだったが…」  一人目の声には聞き覚えはなかったが、二人目の声は山本助手だった。以前教授室で話した時の取り繕った声とは全く違う、したたるような悪意を感じさせる声だった。 「しかし、手技は凄いぞ。まさに神業だ」  そう反論しているのは、学生時代の友人柏木先生だった。  しばらく沈黙が支配する。 「…黒木准教授も我が儘ぶりに手を焼いているそうだぞ」  それは初耳だった。黒木准教授は初めて自分が手術を終えた一日後、教授室にやって来てこう言ったハズだ。 「教授の手技に心底感服致しました。准教授として、教授の指導を仰ぎつつ雑用をお引受け致します」と。  それは社交辞令だったのか…と思った。本人から聞かなければ本当のことは分からないが、本音で話してくれるだろうか? 「しっかし、田中先生も災難だよな」  祐樹の話が出たので途端に身体が強張る。 「顔合わせで皆の意見を代表して言っただけなのに、地獄の救急救命室送りだぜ。今頃もきっと床が血で滑る戦場のような場所で…野戦病院の軍医のように走り回るハメになってるぜ…あれはテイの良い島流しだろうな…。見せしめだろうよ。『私に逆らう者は皆、こうなりますよ』ってヤツだ。縦割りが大原則のウチの病院だが、北教授も斉藤医学部長の権力には逆らえなかったということか!あの頑固オヤジでも出世を諦めてはいないらしいな。  ともかく、斉藤医学部長がバックに付いているんだから恐いものナシだぜ」  これも山本助手の声だった。  確かに救急救命室に田中祐樹を送った理由の数%は、山本助手の指摘通りだ。それは否定出来なかった。しかし、田中祐樹のメス捌きを鈍らせたくない…というのが残りの9割だ。そして公私混同だと密かに恥じている祐樹に恋人が居るか居ないかを確かめる目的も……。 「田中先生も零していると聞いたぜ。『こんな病院辞めてやる』と」  さっきから聞こえて来るのは山本助手の声ばかりだった。 ――本当に祐樹がそんなことを?――  ドアノブを握った手が震える。 「それは、どこから聞いた噂だ?」  柏木の冷静な声がする。 「…いや、風の噂ってやつだ…」  少しトーンを落として山本助手が言った。  彼のことは大体把握している積りだった。こういう口調の時はフレームアップのことが多い。  山本助手は手術を外されたことを不満に思って自分に悪意を持ったのだろうか…と思う。  自分は異例の若さで教授になったし、いくらこの大学が母校といっても長く離れていたので相談する相手も居ない。同期と呼べる人間は、講師ですらない。同じポストの人間は年が離れすぎている。といって医学部長に相談するほどのことでもなかった。 「とにかく」  と、一段大きな声を出して山本助手が言った。 「あの若造の天狗の鼻をへし折ってやろうぜ」  自分が聞き取れた範囲では、賛成の呟きが漏れていた。  その後、聞き取れない会話が続いた。 「俺は反対だ。それに患者さんに迷惑を掛けることは医療人として有ってはならない。悪いが…この話は聞かなかったことにする」  柏木先生が強い口調で言った。そのまま部屋から出てきそうな足音に慌ててドアノブから手を離し、そっとその場を離れた。廊下を曲がるのと同時に柏木の怒りに満ちた顔がドアから出て来た。  彼は学生時代の友人だ。それは間違いない。どんな会話が医局内で交わされていたのか聞いてみたい誘惑に駆られたが、そんなことをすれば立ち聞きしていたことが分かってしまう。 ――結局は、味方は柏木先生1人か…――  そう思うと寂寥感に包まれた。    医局には入ることが出来なかったので、どうしようかと思案した。  田中祐樹の顔が脳裏に浮かぶ。救急救命室に行ってみようか…とフト思った。あの診療室はガラス張りなので、覗くことは出来る。  そう思うと居ても立ってもいられなくなった。  救急救命室を覗く。彼は額に汗を浮かべ、開胸マッサージをしていた。射抜くような真剣な眼差しで。開胸マッサージは体力勝負だ。額に浮かぶ汗がゾクリとするほど、セクシーだった。見惚れていると肩をポンと叩かれた。 「香川君、久しぶり。今は戦場も一休みなの。コーヒーでも飲まない。教授就任おめでとう。就任祝いに奢るわ」  テキパキした声はこの部屋の主、阿部師長だった。

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