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第四章 第20話 教授視点

「いつ、呼び出しが掛かるか分からないので、近くの喫茶店でいい?香川君…っと…教授と呼ばないとね」 「いえ、医学生の時に阿部師長には色々と教えて貰いましたから、私にとっては大先輩です。『君』で充分です」  そう言って微笑んだ。 「煙草、吸っていいかしら?」 「もちろんです」 「田中先生をこちらに回してくれて有り難う。戦力としては最強の助っ人よ」  自分スモーカーではなかったが、肺気腫や肺癌のリスクも重々承知の上で、精神安定剤代わりの効用は無視出来ないと思っていた。 「田中先生のメス捌きは如何ですか?」  一番気になっていたことを聞いてみる。 「香川君が医学生の頃のメス捌きと同じレベルかしらね…ただし、香川君のは天才型。田中先生は秀才型だと思うわ。場数を踏めば踏むほど上達するタイプと見た。  で、ココからが本題。あんな優秀な先生を地獄の救急救命室に配属してもらったお礼をしなきゃね…」  紫煙を聡の方に向けないようにしながら話を続ける。 「上川総師長とは親しいのかしら?」 ――総師長、もしくは看護部長。大学病院の看護師全員のトップに君臨する。権力はなまじの教授よりも上だ。歴代の彼女の逆鱗に触れて大学病院から去った教授も居るほどとか聞いている。 「いえ、お目に掛かったことすらありません」 「実は上川さんとは同期なの。私が救急救命室で血の海を走り回っている時から持ち前の政治力を総動員して総師長の座を射止めた。  でも、ナゼか馬が合って、親友よ。香川君も教授になったのだから、上川さんとは懇意にしていた方がいいわ。私から話を通しておくから、香川君の教授室に呼んでやって」  昔から彼女の意見は的確で無駄がなかった。きっと自分のことを思いやっての発言だろう。 「分かりました。可及的速やかに上川総師長と面談します」 「上川ちゃんも喜ぶわ。香川君とお話ししてみたいって言ってたし、それでね」  阿部師長の言葉を携帯電話の着信音が遮る。阿部師長はディスプレイを確認すると、滑らかな動作で通話ボタンを押し、手短に話した。おもむろに財布から千円札を取り出し、テーブルに置く。 「患者さんが搬送されたみたい。もっと話したかったけど、また暇が有れば」  そう言って急いで喫茶店から出て行った。  しばらくコーヒーを味わって席を立つ。 ――医局での密談は終っているだろう――。  そう思い、医局の扉の前で気配を伺う。室内に人の気配は無かった。手術が予定されている患者さんの紙のカルテを目で追った。目で見た資料は全て――といっても自分が暗記しようと思うものだけだが――頭にインプット出来た。  教授総回診までに、することはいくらでもある。手術の順番を緊急度に合わせて決断し、長岡先生に先にデータを渡すことが最重要だ。  自室に戻ると、医局に貼り出す告知文を作った。本来は秘書の仕事だが今日は日曜日で当然休みだ。 「慣習では特診患者が入院している5階から総回診を行っていたが、私は重篤な患者から回診する。3階に集合するように」  おおよそそんな内容だった。自分の部下にもメールで流した。  これで皆、3階で待ち受けてくれるだろう。  田中祐樹の受け持ち患者は、やはり早期の手術が望ましいな…と電子カルテと記憶した紙のカルテを検討して手術予定の上位に入れた。  総回診の日、黒木准教授を背後に従えてベッドを回る。ずっと背後にいる田中祐樹の姿を集中して背中で感じながら。  こんな若造が教授?と患者さんに不信感を持たれないかと予想していたが杞憂だった。患者さんの言葉に真摯に耳を傾け、担当医に指示を与える。  次はいよいよ田中祐樹の担当している患者さんだった。  他の医師の名前は普通に呼べたのに、彼の名前をどうしても呼べない。自分に叱咤激励をして、名前を呼ぶと掠れた声になったのが自分でも分かった。  彼と少しでも長く話したい、彼と視線を出来るだけ長く絡ませたい。  そう願っていると妙案を思いついた。  紙のカルテと電子カルテの内容が少しだけ違っていたのことを思い出した。  教授室に呼ぶ格好の口実だ。さっそく実行することにした。

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