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第四章 第21話 教授視点

 総回診がつつがなく終り、自分の部屋に入ると秘書が香ばしいコーヒーを淹れてくれる。  秘書としての長いキャリアか、――詳しいことは知らないが――主婦としての経験か、彼女のコーヒーはいつもなら大変美味に感じた。味覚にはさして興味のない自分だったが。  が、今日はコーヒーの味も分からなかった。機械的に左手でコーヒーを飲み干す。右手には散々迷った末に書いた自分の携帯番号のメモ用紙を汚さないように持っている。  番号を書くのにも散々躊躇した。本人を前にしてこのメモを渡せるか勇気があるかどうか自分でも分からなかった。  ドアがノックされ、田中祐樹の来訪が告げられる。  秘書には下がって貰うようにあらかじめ頼んでおいていた。  彼の声を聞いた途端、心拍数が上がる。心臓を落ち着かせようとしばらく入室を待って貰った。弾みで右手のメモ用紙がひしゃげた。慌てて新しいメモ用紙を取り出し、番号を丁寧に書いた。  入室を許可した。入って来た時の田中祐樹の顔は、叱責を覚悟しているのか、潔い目つきだった。その瞳に魅了された。色々な表情を垣間見ていたが、今回の瞳は、深い湖を思わせる。  メモ用紙をさり気無く机に置く。そうしないとまた紙に余計なシワが出来そうで。出来るなら綺麗なままで彼にメモ用紙を渡したかった。  田中祐樹の患者のことで話し合いになった。手術の場数は踏んでいる自分の方がこの論争は有利だ。  その時、天啓のように閃いた。 ――自分が指導医のような役割をすればいい。そのために携帯電話の番号を渡すのは不自然だとは思えない――。  大義名分が有るとそれだけで気分が楽になる。すんなり携帯電話のメモ用紙を渡すことが出来た。  彼と二人きりになると必ず起る手の震えも必死で隠そうとした。が、多分彼は気付いてないだろう、な…と思う。  携帯番号を書いたメモ用紙は、今は田中祐樹の骨ばった長い指先が握っている。その指先と端整な男らしい顔を見ていた。  自分の手技を彼に教える…というのはとてつもなく甘美な気持ちだった。  その余韻に浸る間もなく、田中祐樹は部屋を出ようとする。  彼にとっては居心地の悪い雰囲気だっただろうな…。  自嘲気味に思い返していた。  自分にとってはどんな口実でも良かった。彼と二人きりでいるのは。しかし、田中祐樹に取っては上司の叱責でしかない。そそくさと退室したくなるのも当たり前だと思った。  が、何か記念になるようなものが欲しい。唐突な欲求が突き上げてきた。女子高生でもあるまいし…と自分を嘲笑したが、欲しいものは欲しかった。  まだ彼が退室して間もない。今から追いかければ間に合うだろう。 ――そうだ、携帯の番号――  そう思いつくと、素早くデスクから立ち上がり部屋を出た。  案の定廊下に彼の姿があった。広い背中に一瞬見惚れた。  自分でも良く分からない理屈をつけて携帯番号を聞きだす。彼は白衣のポケットから大型の付箋紙を取り出し、無造作に番号を書き込む。  急場では当たり前のこととはいえ、製薬会社のマークの入った付箋紙…。  自分はキチンとメモ用紙――しかも、アメリカ時代から気に入っているエルメスで購入したスケジュール帖に付いていた画用紙のような紙片――に迷い迷いしながら書いたものなのに…と、思うと絶望感に押しつぶされそうになった。が、付箋紙を大切に持ち、部屋に戻った。  単なる数字の羅列だが、今の自分にとっては大切な宝物だった。しばらく見詰めていた。一目見て番号は暗記したが、田中祐樹の筆跡だ、それも自分だけに書かれた。感慨もひとしおだった。 「失礼します」  秘書が控えめに声を掛けた。続けるように頷いた。 「本日は午後から手術が…」  その声で仕事モードに頭を切り替える。  総回診の日は手術しないのが通例だが、緊急度ナンバー1の患者さんだった。さしもの長岡先生の投薬でも発作が治まらず、可及的速やかに手術が必要だと回診の前に長岡先生からも言われ、手術室とスタッフに無理を言って午後の手術を決意した患者さんだった。  術前カンファを手術室の隣室で行った。が、スタッフの顔ぶれは第一例目と同じだったが、流れる雰囲気がどことなく違った。  手術中も、今までとは違った。まず、道具出しの看護師のタイミングが半拍遅れる。第一助手は、術野(手術をする箇所)の視界に入ってこようとする。   執刀医しか術野に入ってはいけないという大原則を忘れたかのようだった。  手術に集中しながら必死でそれらのノイズとも合わせようとした。額に汗をかいていることを自覚しながら。  手術自体は成功したが、これからもこういう手術だといつか術死が起るのではないかと強く危惧した。  もしかして、日曜日の医局での密談のせいなのだろうか…と疑惑が頭を擡げた。  自分なりに調査をしてみようと思った。  脳裏には自然と田中祐樹の今日の瞳が浮かんでいた。救いを求めるかのように。

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