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第四章 第22話 教授視点
誰に相談するか、まず迷った。一番事情に通じているのは「あの」密談現場にいた柏木先生だろう。
彼は、自分が教授になって古巣に舞い戻って来た時に廊下で会って話してはいる。が、大学病院のヒエラルキーからすると天と地との違いがある。柏木先生も学生時代に一緒に学んだ仲だというのにかつての親しさの片鱗も見せずに慇懃に挨拶をしてきただけだった。
LA時代が懐かしさを伴って思い出される。あの頃は同僚のケンがあけっぴろげな態度で接して来た。
今の自分には相談相手が居ない。仕事の件でもプライベートなことでも。
長岡先生は内科部門では天才的だが、プライベートに関しては自分にとって妹のような存在だ。しかも専門は内科。手術のことは相談出来ない。
柏木先生の携帯番号は当然院内LANに載っている。もちろん、田中祐樹の番号も。田中祐樹から貰った携帯番号が書かれた付箋紙は大切にスケジュール帖の最も奥に挟んである。
彼は自分の携帯番号の書かれたメモ用紙をあれからどうしたのか気になった。最悪ゴミ箱に捨ててしまっているかもしれないな…と思う。
柏木先生の勤務シフトを確認した。今日は定時上がりだった。彼はまだ一介の医師にしか過ぎない。医局にデスクを持つ身だ。電話では他の医師に聞かれる恐れがある。院内LANのメールで連絡を取ることにした。
話があること、そして緊急であることを書いて送信した。
直ぐに返事が返って来た。待ち合わせの場所は個室のある高級居酒屋らしい。個室を予約したとメールには書いてある。地図も几帳面に添付されている。
定時で上がり、指定された店に行く。少し遅れて――医師は手術時間には几帳面だが、どうしても書類仕事や緊急カンファレンスが入り遅れるというのは日本の常識だったので気にもならない――柏木先生が個室に入って来た。
「教授昇進おめでとう」
そう言ってビールで乾杯してくる。相変わらず冷徹な雰囲気だが、聡を疎んじているようでもなかった。黙ってグラスを合わし、ビールを喉に流し込む。
「顔色が冴えないな…。何が有った?」
午後の手術に彼は加わっては居ない。
「手術室の雰囲気が悪い。道具出しのナースは一例目の時と違ってタイミングを微妙にずらすし、第一助手は術野に入り込んでくる」
「…そうか…。執刀医は未経験だが、そのイライラした気持ちは分かる。
我々の勤務先は大学病院だ。しかも29歳の若さで教授の座を射止めたのだから嫉妬する人間は多い。
心当たりがないこともないが、陰口を叩くのも性に合わない。患者さんの命が掛かっているなら別だが、そんな動きもない。
旧友のよしみで一つ忠告しておく『誰も信用するな』だ。」
柏木は大学病院生え抜きの医師だ。迂闊に固有名詞など出して密告という形にしてしまったら、それが漏れた時のことが恐いのだろうと思った。
それからは、学生時代の話になった。
「そういえば、田中祐樹という研修医を知っているか?」
ドキリとして柏木の顔を窺う。が、彼の顔には特別の表情は浮かんではない。
「もちろん知っている」
必死に動揺を押さえ込む。
「田中は…いや…止めよう。これも陰口になる」
他の名前ならそこで追及を止めたと思う。が、どうしても続きが聞きたかった。彼が同性愛者という陰口なら庇ってやる積りだった。
「仕事のことか?それともプライベートなことか?」
「プライベートのことは良く知らない。興味がないからな。ナースに気に入られているということしか知らない。
仕事のことだ。黒木准教授に可愛がられていた…お前が日本に来る前に…そう言えば分かるだろう?」
意味ありげに柏木は唇を歪めた。
――田中祐樹も自分を快く思っていなかった仲間なのか――
心がストンと闇の中に落ちていくような気がした。
それから柏木とどんな話をしたか覚えていない。
いつの間にか、彼と別れ1人路傍に立ちすくんでいた。
部屋に帰る気も起らなかった。アルコールが欲しい――それも今までのショックから立ち直れそうな寛いだ場所で――ホテルのバーなどで飲めば余計に落ち込みそうだ。
「グレイス」という固有名詞が浮かび上がった。あそこには田中祐樹と5年前に出くわしてから行ったことがないが、場所ははっきり覚えていた。自分と同じ性癖の者が集まる場所はあの店しか知らなかった。
性癖が同じ人間が集まる場所――例の田中祐樹と親しげに話していた美貌の人が居たら引き返そう――だと心も少しは晴れるだろうと思った。
迷わずタクシーを停めて「グレイス」の近くまで行った。しばらく躊躇した後に扉を開ける。
「お久しぶりです」
そう声をかけて来たのはオーナーの上村だった。
誰に相談するか、まず迷った。一番事情に通じているのは「あの」密談現場にいた柏木だろう。
彼は、聡が教授になって古巣に舞い戻って来た時に廊下で会って話してはいる。が、大学病院のヒエラルキーからすると天と地との違いがある。柏木も学生時代に一緒に学んだ仲だというのにかつての親しさの片鱗も見せずに慇懃に挨拶をしてきただけだった。
LA時代が懐かしさを伴って思い出される。あの頃は同僚のケンがあけっぴろげな態度で接して来た。
今の自分には相談相手が居ない。仕事の件でもプライベートなことでも。
長岡先生は内科部門では天才的だが、プライベートに関しては聡にとって妹のような存在だ。しかも専門は内科。手術のことは相談出来ない。
柏木の携帯番号は当然院内LANに載っている。もちろん、田中祐樹の番号も。田中祐樹から貰った携帯番号が書かれた付箋紙は大切にスケジュール帖に挟んである。
彼は自分の携帯番号の書かれたメモ用紙をあれからどうしたのか気になった。最悪ゴミ箱に捨ててしまっているかもしれないな…と思う。
柏木の勤務シフトを確認した。今日は定時上がりだった。彼はまだ一介の医師にしか過ぎない。医局にデスクを持つ身だ。電話では他の医師に聞かれる恐れがある。院内LANのメールで連絡を取ることにした。
話があること、そして緊急であることを書いて送信した。
直ぐに返事が返って来た。待ち合わせの場所は個室のある高級居酒屋らしい。個室を予約したとメールには書いてある。地図も几帳面に添付されている。
定時で上がり、指定された店に行く。少し遅れて――医師は手術時間には几帳面だが、どうしても書類仕事や緊急カンファレンスが入り遅れるというのは日本の常識だったので気にもならない――柏木が個室に入って来た。
「教授昇進おめでとう」
そう言ってビールで乾杯してくる。相変わらず冷徹な雰囲気だが、聡を疎んじているようでもなかった。黙ってグラスを合わし、ビールを喉に流し込む。
「顔色が冴えないな…。何が有った?」
午後の手術に彼は加わっては居ない。
「手術室の雰囲気が悪い。道具出しのナースは一例目の時と違ってタイミングを微妙にずらすし、第一助手は術野に入り込んでくる」
「…そうか…。執刀医は未経験だが、そのイライラした気持ちは分かる。
我々の勤務先は大学病院だ。しかも29歳の若さで教授の座を射止めたのだから嫉妬する人間は多い。
心当たりがないこともないが、陰口を叩くのも性に合わない。患者さんの命が掛かっているなら別だが、そんな動きもない。
旧友のよしみで一つ忠告しておく『誰も信用するな』だ。」
柏木は大学病院生え抜きの医師だ。迂闊に固有名詞など出して密告という形にしてしまったら、それが漏れた時のことが恐いのだろうと思った。
それからは、学生時代の話になった。
「そういえば、田中祐樹という研修医を知っているか?」
ドキリとして柏木の顔を窺う。が、彼の顔には特別の表情は浮かんではない。
「もちろん知っている」
必死に動揺を押さえ込む。
「田中は…いや…止めよう。これも陰口になる」
他の名前ならそこで追及を止めたと思う。が、どうしても続きが聞きたかった。彼が同性愛者という陰口なら庇ってやる積りだった。
「仕事のことか?それともプライベートなことか?」
「プライベートのことは良く知らない。興味がないからな。ナースに気に入られているということしか知らない。
仕事のことだ。黒木准教授に可愛がられていた…お前が日本に来る前に…そう言えば分かるだろう?」
意味ありげに柏木は唇を歪めた。
――田中祐樹も自分を快く思っていなかった仲間なのか――
心がストンと闇の中に落ちていくような気がした。
それから柏木とどんな話をしたか覚えていない。
いつの間にか、彼と別れ1人路傍に立ちすくんでいた。
部屋に帰る気も起らなかった。アルコールが欲しい――それも今までのショックから立ち直れそうな寛いだ場所で――ホテルのバーなどで飲めば余計に落ち込みそうだ。
「グレイス」という固有名詞が浮かび上がった。あそこには田中祐樹と5年前に出くわしてから行ったことがないが、場所ははっきり覚えていた。自分と同じ性癖の者が集まる場所はあの店しか知らなかった。
性癖が同じ人間が集まる場所――例の田中祐樹と親しげに話していた美貌の人が居たら引き返そう――だと心も少しは晴れるだろうと思った。
迷わずタクシーを停めて「グレイス」の近くまで行った。しばらく躊躇した後に扉を開ける。
「お久しぶりです」
そう声をかけて来たのはオーナーの上村だった。
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