96 / 403

第四章 第24話 教授視点

 一日の手術は自分の懸命な努力で無事終了した。CCUに移された患者さんは、長岡先生の内科的アプローチで命は取り留めるだろう。  手術の疲労が肩にのしかかって来る感じだった。今まで経験したことがない種類のプレッシャーだった。――このままでは、術死が出てもおかしくない――    そう考えると居ても立ってもいられなくなる。自分の指導力不足が原因でこのザマになってしまったのだから。  帰路につく。自然と足は自室ではなく「グレイス」に向かっていた。明日は田中祐樹が第一助手を務める。執刀医の経験はもちろんないが、手術室のスタッフの名前によく名前が有った。彼もわざと邪魔をするのだろうか…。  そうなれば、立ち直れないな…と思い、ドアを開けた。  カウンター席には高級そうなスーツの常連客と思われる男性が静かに酒を楽しんでいる。こちらをちらりと意味ありげに見たが、彼の目には自分の対する欲望は感じられなかった。 「お、来たな。こちらへどうぞ」  数日で顔なじみになった男達が奥のテーブルに案内する。底抜けに明るい彼らは酒量も底抜けではないか…と思わされる。その明るさと、手術室でのトラブルや、そのトラブルに田中祐樹が関わっているかも知れない…との危惧やらで、注がれたウイスキーをつい呑んでしまう。どのくらいそうしていたか分からなかったが、男の1人が声を上げた。 「あ、同僚の田中が来ていますよ」  一気に酔いが覚めるような気がした。確かに「彼」だった。――何故彼が今日ここに?救急救命室の勤務はどうしたのだろうか?――という疑問が浮かぶ。  祐樹はカウンターで静かに呑んでいる先ほど自分を見ていた男性と話しながらこちらに視線を送ってくる。  彼の目は驚愕と怒りが宿っている感じだった。  強引に店から連れ出された。店の近くで「婚約者がありながら」などと祐樹の声を聞いた途端、酔って思考が散漫になっていたにも関わらず妙案が浮かんだ。 <一回だけでもいい。祐樹とそんなコトをしてみたい。それを一生の宝物にするから> 「黙っててくれないか。その代わり好きにしていい」  交換条件があれば、もしかしたら抱いてくれるかもしれないと思った。  婚約者とは長岡先生のことだろうな…と思った。が、彼女にはれっきとした婚約者が居るし、自分のプライベートには関係ない人間だ。祐樹が誤解しているならそれに賭けてみようと思った。  彼の肩口に顔を埋めると、僅かな消毒薬の香りと清潔な匂いがした。回らない頭で彼の自分よりか少し肩幅が広く、骨ばってほんのり冷たい感触が心地よかった。 「ホテルに連れ込みますよ?」  そう言われ、京都ではこちらが知った人間でなくても向こうが知っている可能性が高いことに思い至る。この前、長岡先生と行ったGホテルも、知らない人から随分名前を呼ばれた。京都ではない他の…と希望を伝えた。  それからはところどころ記憶が曖昧だった。  大阪で一番評判の高いホテルを祐樹がタクシーの運転手に告げていた。今まで祐樹には冷淡にしか接していなかったのに、そんなホテルを選んでくれたのか…と思ったら、心のタガが外れた。酔いも手伝っているので尚更だ。  涙が出そうになって慌てて思考をよそに逸らす。視界に彼の指が入った。  祐樹の手は自分の指より少し長いその指の温度を確かめたくなった。タクシーのバックミラーから死角になる場所で指を絡めた。振り払われるかと覚悟していたが、祐樹は聡のしたいようにさせてくれた。  むやみに嬉しくなって、質問攻めにする。そして祐樹が質問してきたことに対しても本当のことを言ってしまう。やはり酔っているらしい。  ふと、「祐樹」と呼びかけているな…と気付く。1人の時はそう呼びかけていたが他人の目の前では言ったことのない呼び名。  普段ならその不注意さに落ち込むところだが、今は呼びかけたことが嬉しかった。ついつい、祐樹と呼んで話してしまう。  いつの間にかまどろんでいたらしい。もしかしたら、先ほどまでのことは全て夢だったのか…と危惧してタクシーの横を見る。田中祐樹の利発そうな顔が対向車のヘッドライトに照らされていつも以上に聡を惹きつけた。  が、少し眠ったせいで酔いが覚めた。このまま甘えるべきか、それとも普段の仮面を付けた自分で接するべきか…。  生まれてこのかた、他人に甘えたことがない自分は、甘えるのがさぞかし下手だろうと思った。ならば、職場で接しているようにする方が無難かと判断した。  祐樹は、起きた自分を覗き込み愛しそうに微笑んでみせた。こんな祐樹の顔を見たのは初めてで、呆然としてしまった。 「約束を覚えているか」  そう聞かれ、実は全部覚えていたが、そう答えるのも恥ずかしかった。  が、覚えていない…と言うと「婚約者がいる」と祐樹が思っている以上、ここで引き返されるかもしれない。それは避けたかった。 <一回だけ…それ以上は望まないから>  先ほどの思考がリフレインする。  強気なフリをして、このまま「交換条件」という前提で突き進むべきだ。  タクシーが大阪梅田のRホテルに着く。フロントで誰かに見られたら…と危惧したが、祐樹は、さり気無く自分を他の客から死角になるように庇ってくれ、「クラブフロア宿泊です」と言って居た。  自分の載っていた雑誌で読んだことがあったが、最近では特別な客はフロントではなく違った場所でチェックイン出来るシステムだと書いてあった。それを使う積りらしい。  タクシー代は祐樹が払ってくれたので、このホテル代は自分が払う積りだった。抱かれるのを望んでいるのは自分なのだから。  チェックインを34階で済ませる。自分の住んでいる京都と違い、大阪平野は広い。今は夜中だが、夜が明けたら眺めがいいだろうな…と、緊張を紛らわせるために思っていた。  部屋に行く廊下も木をふんだんに使った、落ち着いた雰囲気だった。が、緊張のあまり、それほど目には入らなかった。気を緩めると顔が紅くなると自覚していたので、患者さんの前で見せる顔をしていた。心拍数は上がっていたし、何より、「これからの期待」で頭がどうにかなりそうだった。  5年越しの結実…それが今夜だったのだから…。  自分に魅力のないのは分かっていた。一回だけ、それだけで充分な思い出になる、そう意を決した。  祐樹がドアを開いて、待っていてくれた。 ――微笑んで、有り難う――  そうしたかったし、言いたかった。が、いつものモードでと決めていたので敢えて言った。 「有り難う。田中先生」  と。  何でもないことのように振舞うべきだと思ったが、これから起ることを期待すると、下半身に熱を孕んでしまっていた。

ともだちにシェアしよう!