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第六章 第4話

「これが、阿部師長が席を外していらした時の患者さんのカルテです」  香川教授が紙のカルテを差し出した。かなりの厚さがある。  彼女はパラパラと捲っていたが、驚きを隠せないように言った。 「処置は完璧。その上でカルテ記載まで…それにどの病棟に上げたのかまでしっかり書いてある。こんな凄い仕事振りは初めて見た…。北教授と変わって貰いたいくらい…でも、香川先生は心臓外科の稼ぎ頭だからヘッドハンティングは無理ね…ははは」  祐樹も横から覗き込んだ。症状から投薬までよくもまあこんなに短時間に書けるものだと感心する記述だった。自分には到底不可能だ。治療とカルテ記載の両立を完璧にこなす救急救命医もそうはいないだろう。彼の処理能力の高さに脱帽した。 「何分、救急救命室は久しぶりだったもので、私の治療法は古いかも知れません…後ほど確認をお願いします。  そして、あの件の承諾、有り難うございました」  そう言って香川教授は頭を下げる。 「午後は、休みを取るわ。有給休暇…今年に入ってから全然消化してないから…その時の責任者も教授にお願いしたいほどの完成度なんだけど、流石にそれは無理でしょうから、ベッドコントロールの権限を持った看護主任に押し付け…いや、任せることにする」  カルテを見てますます感心したのだろう。全面協力の約束を引き出せた。 「それまでに印鑑を作っておきます…っと、言いたいところなのですが、あいにく手術が…」  祐樹は言う。それは香川教授も同じだ。ハンコ屋さんが開店する時間は手術の真っ最中のハズだ。  一瞬考え込んだ香川教授は顔を輝かせる。 「私に考えが有ります。印鑑を午前中に作って、こちらに持参させますので、どうか宜しくお願いします。その印鑑を持ってここに行って下さい」  教授は魔法のように取り出した杉田弁護士の名刺を渡す。  用件は終ったので、師長に挨拶もそこそこに引き上げる。教授はかなり疲れているだろう。少しでも休ませたかった。 「夜間職員通用門の辺りでお待ちしています。お疲れでしょうから、早く休んだ方が良い」  救急救命室を後にして、人気のない廊下を歩く。 「そうだな…流石に疲れた…しかし、救急救命室の仕事は新鮮で面白かった。さまざまな病状を診るのは久しぶりだったから。それにあの戦場に身を置いていると高揚感に包まれる」 「そうですね…今のところ教授の手術は心臓バイパス術だけですからね…」 「これで、安定した手術が行われるようになれば言うことはないのだが」  溜め息を零す教授に祐樹は励ました。 「もう少しで教授の願いは叶えられますよ。ところで印鑑を取りに行くのは誰ですか?」  予想はしていたが、敢えて聞いてみた。 「長岡先生だ。彼女は手術前こそ忙しいが、手術に入ってからはそれ程忙しくないので…彼女は方向音痴だが、地図を渡しておけば大丈夫だろう。印鑑を買うくらいなことは出来るだろうから…」 「そうですね」  そう言って分かれた。香川教授は彼の個室に、自分はロッカールームに。  手早く着替えると職員用の通用口に急ぐ。  彼は先に来て待っていた。祐樹の顔を見ると、綺麗で清潔感溢れる笑顔を浮かべる。その顔に理性が飛びそうになったが、場所を考えて断腸の思いで自重する。 「今夜はマンションに帰宅されますか」  タクシーに乗り込む前に聞いた。 「ああ、そのつもりだ」 「では、教授のお部屋に先にタクシーを停めてから私の自宅に回って貰います」 「…いや、先に祐樹の部屋が見たい…な」 「別にお見せするほどの部屋ではありませんよ。研修医の給料はご存知でしょう?」 「…そういう積りで言ったのでは…」   唇を噛んで教授が言い募る。 「部屋を御覧になりたければ、見せても全く構いませんが…今日のところは夜も遅いし、後日ということで…」  コクンと頷かれた。  時々この人は子供じみた動作をするな…と思う。他の医局員の前では全く見せないが。  その時、彼の高そうなスーツにところどころ血が飛んでいることに気付いた。  治療の時に白衣で隠せない場所に血飛沫が掛かったのだろう。  タクシーに乗り込むと、彼の小指が祐樹の小指にそっと触れられた。  フト悪戯心が湧き起こる。小指をいったん離し、彼の爪の方から中心にかけて爪で撫で上げた。  ビクっと震える身体が、愛しい。が、こんなにも感じやすくした過去の男性にどうしようもなくどす黒い感情を感じる。何人の男性にこの身体を触れさせたのだろうか…。  祐樹もそれなりに遊んできたので、彼の男性遍歴には文句は言えない。言う権利などないが自分でも理不尽とは分かっているが…知りたいと思う気持ちが抑えきれない。  タクシーが、香川教授の指示したマンションに着く。見かけはこれ見よがし的な超豪華マンションではないが、植え込みやエントランス部分にもお金が掛かっていそうなマンションだった。こじんまりした豪華マンションというところか…と思った。  植え込みの中にも電灯が灯っている。指は絡めたままだった。  タクシーの運転手さんに少し待っていて貰うように頼んで、一緒に車を降りた。  料金の支払いを終えた教授は驚いた表情をしたが、何も言わない。が、小指は絡めたままだった。その力が強くなる。  植え込みの中に彼を誘った。

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