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第八章 第7話
教授の涼しげな声が受話器越しに聞こえてきた。そして多分携帯電話を白衣のポケットにでも入れているのだろう。(一番それが疑われずに、また通話も聞こえると見越した教授の思惑だろう)身じろぎする衣擦れの音も。
「本来ならば、佐々木前教授から齋藤医学部長への私信なので、ここで公開するのは法律上問題があります。しかし、佐々木前教授と私の手技との比較という点で議論がなされているのですから…仕方ありません。公開します。後で私の方から双方にお詫びをすれば良いと判断しました。どうぞ、御覧下さい」
その発言が有った後、椅子を引く音や彼が軽やかに歩く音などが聞こえた。多分今居教授の元に手紙を持って行ったに違いない。
――私信…そう聞いてやっと祐樹は思い出した。佐々木前教授の御宅に教授と共に行き、佐々木前教授に手術のビデオを見せたことがあったことを。そして、佐々木前教授は驚愕し、書面にすると約束してくれた。
祐樹がその書面を教授に渡したことも…記憶力にいささかは自信があったが、色々なことが起るのでツイ忘却の棚に放り投げてしまっていた。教授はそれを覚えていたのだろう。記憶力の良さは自分には到底敵わない相手だ――。
パサっと紙面を机にでも投げ出す音がする。
『にわかには信じられない話だが…佐々木前教授は篤実な人柄だ。よもや嘘などは吐かないだろう…な』
咽喉の奥から無理やり搾り出したような声で今居教授が言う。
多分、その書面が各教授に回っているのだろう、紙の触れ合う音がしたと思うと、『信じられん』などといううめき声に似た声が起る。
『この書面で明らかだ。香川教授の手技ではなく、手術室のナースのせいで…それも、にわかには信じがたいが…手術中に不協和音が起ったのだな…』
北教授が半ば呆然と発言した。
『これは、手術室の責任者や、看護部長にまで勧告すべき事態ではないかね?』
他の教授は驚きの余りか声も出ないらしい。北教授は普段臨床には出ていないが、救急救命医だ。現状を把握し、適切な処置を取るというのは救急救命医の基本を忘れてはいないらしい。
「いえ、その必要は有りません。皆様にご心配やご心労をお掛けしましたが、最近やっと対抗策が見つかりました。今後はこのようなことはないと断言いたします。コトを荒立てる気は有りませんので…」
淡々とした教授の声に北教授が心配を滲ませた声で言う。
『そんなことが果たして可能なのか?』
「はい。ワザとタイミングをずらすという行為にはどうしても本人は頭で考えます。頭で考えることは確率計算出来ますので…。かえって反射神経のみの方が予測は不可能かと…」
その一言に室内はざわめく。祐樹も一番最近の彼の手術を見て感動したのだが、他の教授も度肝を抜かれたらしい。
「それに、看護部長まで問題を大きくするのは得策ではないと愚考いたします。彼女はナース全員の長ですから、改善策を提示しなくてはならない立場です。忙しい業務をこれ以上増やしてはならないと愚考します。手術室の責任者も同じです。問題は一看護師だけですので、こちらは他の手を打ってあります」
『そうか…それなら香川教授の件は、ここまで…』
北教授が感嘆の気持ちを隠そうとはせずに言ったが、話の最中に途切れた。
次は何だろう?と祐樹はハラハラして聞いていた。
『香川教授は、研修医に他の科に派遣していることも問題だ。これは内政干渉ではないのかね』
今居教授の声だった。どうやら香川教授の不始末をどうあってもあげへつらいたいらしい。
「この部屋に集まっている方は医学的にはそれぞれ立派な業績を上げてらっしゃると思います。しかし、この中で病院経営学を学んだ方はいらっしゃいますか?」
涼やかな声で教授が発言する。
『我々は医師だ。経営は事務方に任せておけばいい。故に病院経営学を学ぶよりも自分の研究の研鑽が大切だ』
噛み付くような今居教授の発言だった。
「10年前でしたらその態度で良かったと思います。皆さんは、この病院の経営状態をご存知ないと看做して宜しいでしょうか」
沈黙が落ちた。
「この病院でも赤字部門は存在します。産科・救急救命室などです。幸い心臓外科は黒字です。その上、手術は『外科』の長岡医師によって内科的アプローチで手術の時間が患者さんにも医師にも最適な時間に設定出来るようになりました。
しかも救急救命は同じ外科ですのでお手伝いは可能です。それに、心臓の専門医でも骨折などの処置は出来ますし、特に心臓疾患の患者さんが搬送されて来た場合は救急救命医よりも高度な判断が可能です。もちろん所属は心臓外科ですので、給与はそちらから支払われます。その人件費をこちらで負担することで少しでも救急救命室の赤字を減らそうとすることが、どうして内政干渉に当たるのでしょうか。これは北教授も了承されていることを蛇足ながら付け加えておきます」
香川教授は自分の手技に疑問を投げかけられた時よりも力を込めて話している。
――ああ、この人は大学病院の経営という視点から物事を見ているのだなと改めて思った。阿部師長からそういった話を聞いていたことを思い出した――。
『その通りだ。香川教授からは将来有望な外科医を厚意で貸し出して下さるとの申し出を受けて私が許可した。これは内政干渉ではない。皆さんはご存知ないかもしれないが、救急救命室では人手不足でてんてこ舞いだ。所属している医師の疲弊は甚だしい。助っ人がどんなに有り難いか…他の教授にはお分かりにならないでしょう』
『議題も尽きたようですし、本日の教授会はこれにて終了とさせて戴きます。もちろん、香川教授の件は、口外無用』
精神的に疲れたような今居教授の宣言で教授会は終った。と同時に通話も切られた。
祐樹は自分の携帯を見て、バッテリーが切れかけているのを確認した。多分、教授の携帯もそうだろう。
イマドキの喫茶店には珍しく、店内にはピンク色の公衆電話があった。会議室から彼が自室に戻る時間を考えて、それまで吸うのを忘れていた煙草に火を吐けた。
あの人は本当に凄い。かつて齋藤医学部長とそのポジションを争ったほどの今居教授をたった1人で撃破してしまうとは…。改めて惚れ直している自分を自覚した。
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