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第八章 第8話
携帯で話していて、途中でバッテリーが切れる可能性はすこぶる高い。それは香川教授も同じだろう。
祐樹はコーヒーのお代わりを頼み、財布の中を確認する。生憎10円玉が少なかったので、喫茶店の人に両替を頼んだ。
最近では両替に良い顔をしない店が増えていると聞いていたが、阿部師長に連れられて何回か来たことのある自分は常連と認知されたのかもしれない。快く引き受けてくれた。
教授会が終ったら逢瀬をすると彼に約束していたので、その相談にも絶対に連絡は必要だ。
会議室から彼の執務室の距離を大雑把に計算してピンクの電話で執務室の直通番号をプッシュする。彼が出るか、あるいは秘書か?と電話してみる。もし、秘書が出て来客中などと言われた場合はここの電話番号――電話に大きく書いてあった――を伝えて掛けてもらうつもりだ。
暗記した電話番号に掛けた。すると秘書が出て「香川教授はお1人です」と言った。替わって貰うように頼む。
「香川だが…」
――祐樹と呼びかけないのは秘書の耳があるからだろう――
そう思って、無難な会話をする。
「おめでとうございます。教授会実は心配していたのですが、お咎めなしで良かったです。ドキドキしながら聞いていました」
「有り難う。祐樹には心配を掛けた…。これから黒木准教授に顛末を話して雑用を二三、片付けると今日の仕事は終りだ。祐樹は?」
呼称が変わったので秘書が別室に引き取ったのだな…と思う。
「私は、教授会の様子が気になったので――とても仕事にならないと思いまして午後休暇を取りました」
「そんなに気を揉ませたのか…もともと祐樹は佐々木先生の御宅に一緒に行っているから予測していると思ってた…済まない」
自分の迂闊さを責めるような口調で教授は言った。が、佐々木先生の書面をコロっと忘れていた自分が悪いだけだ。彼に謝って貰う筋合いはない。
「そんなに謝られては却って恐縮します。で、今晩の約束なんですが…」
数枚の10円玉を積んであった電話スペースに人が通りかかり、台に触れた。その弾みで10円玉が転がる。
受話器を耳と肩に挟んで拾おうとする。そのため一旦話しが途切れた。
「…ダメなのか…?」
悄然とした教授の声に慌てて言った。
「いえ、予定通りで大丈夫です。今携帯電話のバッテリーが切れかけているので公衆電話からなのですが…コインが下に落ちて…必死で拾おうとしたら神経がそちらに…」
慌てて弁明するとクスクスと明るい笑い声が聞こえてきた。その笑い声は無邪気と言ってもいいほどで…ずっと聞いてみたいと思わせる。
「教授は、黒木准教授とお話しになられたらお仕事終りですよね…。私の方がどう考えても先に着くのでチェックインしておきますね。クラブフロアでお待ちしています。バッテリーが切れる可能性が高いので、何か変更などがありましたらホテルのクラブフロアに電話下さい」
京都の町は職場を連想するし、香川教授ほどではないが、患者さんに一方的に知られている可能性も否定出来ない。その点、大阪ならばちょっとした旅行気分も味わえるし、自分を知っている人間に会う可能性も極端に低下するだろう。
先に大阪に行ってブラブラするのも悪くないと思った。京都駅から大阪駅まではJRで待ち時間も入れて30分程度だ。
彼の見事な手技と今回の教授会のことなどをのんびりと思い返してみるのも良いだろう。
その前に予約の電話を入れておかなければならないな…と、バッテリーの残りを確認すると、はなはだ心許無い表示だった。なのでさらに10円玉を減らしてNTTの番号案内に電話をし、アナウンスされた番号を記憶してホテルに予約の電話を入れた。
金曜日なので混んでいるかも…と思ったが、そうでもないようだ。
「ご希望のお部屋はございますか?」と聞かれたので、「クラブフロアのツインルームで、出来れば角部屋が…」とリクエストしてみる。
クラブフロアは空いているだろうが、角部屋はどうだろうか?と思った。が、両隣に部屋があると、何だか落ち着かない。しかも、2人とも禁欲生活が長かった。今回、教授はともかく自分の理性が飛ぶ蓋然性が高い。出来れば角部屋がいい。
「承りました。ご希望のお部屋にご案内させて頂きます。何時頃のご到着でいらっしゃいますか?」
テキパキとしかも暖かみのある声でそう言われた。
角部屋が取れたことに幸先の良さを感じる。
教授は黒木准教授と話すことと雑用があると言ってはいたが、手術の指示書作りなどはキチンとしてからでないと責任感の強い彼は帰れないだろう。
「8時に1人、クラブラウンジで待ち合わせをして2人になります」
「承りました。気をつけていらして下さいませ。私、林が承りました」
流石に一流中の一流のホテルマンは違うのだな…と、今は何でも肯定的に捉えてしまう、もうすぐ彼に逢えるのだから。しかもそういった意味で。
教授は鎮静剤で意識が混濁していた時に「何故、抱いてくれない」と祐樹に迫ったこともあったが、祐樹だって我慢はしていたのだ。特に彼から朝のキスをされた時は理性が飛びそうになっていた。
教授の体調が内田講師のお墨付きを貰えるまでに回復したとなると、手加減は、出来そうに、ない。
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