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第八章 第9話
大阪駅に着いて、久しぶりにぶらぶらと街を歩くのも悪くはない。京都に住んでいる祐樹は京都で全てが揃うのでわざわざ買い物に大阪に出る必要性は全く感じなかった。またこの前、酔った教授と来た時はタクシーだったのでホテルに直行した。朝、京都に戻る時も出勤時間が迫っていたためホテルから駅に直行した。
大阪駅周辺を歩くのは何年振りだろうと思う。学会が大阪で開かれる時もあるが、ウチの大学病院の発表者側に回る時は事前準備で自分達の研究用の資料や発表のための原稿作りで追われていた。また、発表がない時も会場設営などの下準備が祐樹達の仕事だったので、研修医になってからは大阪の街をのんびりと歩くことは皆無だった。
大学時代にコンパに来た時以来か…と妙に懐かしく思う。が、数年の間で色々な建物や百貨店の様子が変わっている。
別に見たいものはなかったので、ついつい本屋に立ち寄りたくなる。大阪梅田は京都とは比べ物にならない大型書店がたくさんある。ホテルに近い書店がいいな…と案内板を探せば、Rホテルのすぐ近くのHホテルに隣接してJ書店がある。そこで時間を潰すのも悪くはないだろうと入って行った。ちなみにこの書店は祐樹が大学時代にはなかった書店だったのだが…。
無目的に歩いているつもりでも自分の興味のある分野の方に足が向く。
そういえば、今日の教授会で香川教授が医療問題を熱く語っていたな…と、医療問題がどれほど深刻かを調べるのにちょうど良いとそちらに向かった。
教授は自分の手技が責められた時よりも、北教授率いる救急救命室の問題についての方が熱心に話していた。祐樹とて、産科のたらいまわし事件の件などは新聞などでは読んでいる。が、あまり自分の問題だと思って読んだことはなかった。
普段、祐樹が読むのは学術論文が載っている学会誌――これは医局にも、教授室にも腐るほど送られてくるし、最新の論文は興味深い――くらいだ。たまには、一般人向けに書かれた新書版やハードカバーの医療問題の本も見てみるか…といった感じで「医療問題」が集められた棚に行くと驚くほどの書物が出版されている。速読も暗記も得意なほうなのでパラパラめくって読んでみたが、確かに教授が危惧するのも充分分かる。
救急救命室はとにかく人手が足りない。しかも、患者さんの搬送は一時に来ることが多いので医師やナースが医薬品や物品の管理が追いつかず請求漏れが多いので結果的には赤字になることが多い…などど書かれた本は興味深いのでツイ買ってしまった。
産科では「お産は安全」と信じ込んでいる患者さんが多く、異常出産で亡くなると訴訟を起こされる確率が高くなっている上に、出産はいつ起るか分からないので産科の医師は24時間休みなしに働いて疲弊して辞めていく場合が多いなどなど。
こういう本を読むと祐樹は昔大学受験で覚えた記憶のある「象牙の塔」という、学問のみを考える施設としての大学や、大学病院ではいられないのだな…と思う。そしてその「象牙の塔」で守られてきた自分と、アメリカに渡って訴訟のリスクも考えながら手術を完璧にこなして帰国した香川教授との差についても…。
ふと、腕時計を見ると予想以上に時間が経っていることに気付き、大急ぎで書店を後にし、Rホテルに向かった。一階部分のフロントでホテルの従業員に「クラブフロア宿泊予定」と告げた。こう言わないと、エレベーターはクラブフロアに止まらないシステムだ。
今まで機能的な本屋に居た祐樹は木をふんだんに使ったホテルの雰囲気と、そこで会う教授の顔を思い出すと懐かしいとか慕わしいといった感情がわきあがってくる。機能的とは対照的なものなので…。
34階にエレベーターを止めてもらい、フロント兼コンシェルジェのデスク――これも落ち着いた木目調――のところに案内される。ホテルの制服を着た感じの良い女性がデスクに座っていたので名前を告げる。
「香川様は先に御着きになっていらっしゃいます」
祐樹の方が先に着いたと思っていたので少し驚いた。彼女の優雅な手つきが奥の席を指し示す。
そちらに視線を遣ると、教授が椅子に座っている。何か物思いに耽っているような顔で窓の外を見ていた。
その後ろには大阪平野の夜景が広がっていたが、祐樹には教授のたたずまいを引き立てているかのように見えた。オレンジ色の照明も彼の白皙の顔を引き立てる小道具のようだった。テーブルの上にはコーヒーが湯気を立てていた。
彼に視線を当てると、すぐに気付いたようで面映げな顔をして微笑してくれた。
「すみません。お待たせしてしまいましたか?」
「いや、私も今着いたばかりだ」
コーヒーの湯気を見る限り本当のようだ。――彼が二杯以上のコーヒーを飲んでいない限りは――。
「先ほどチェックインして、このフロアの説明を聞いていた。ここでは飲み物はアルコールも含め飲み放題だし、向こうの方の食べ物も食べ放題だと。ただ、祐樹が着くまではと思ってコーヒーだけを頼んだところだ」
桜の蕾がほころぶように微笑して彼は言った。どうやら本当にさっき着いたばかりなのを確認し、安堵する。
先ほどの女性が注文を取りに来た。教授のこんな顔を見るのは初めてだったのでもう少しこの時間を引き延ばしたくてコーヒーを注文した。
「大阪にはかなり前に着いていたのですが…本屋に行ってしまい、夢中になって本を読んでいて…」
「ああ、そういうことは私も良くある。で、どんな本を買った?」
本屋の新しい袋を見たのだろう。穏やかな口調で尋ねられた。
「医療問題の一般書です。教授会で、教授が仰っていたのを思い出しまして…」
「結構深刻だろう?」
「はい」
コーヒーを飲みながら穏やかな時間が流れる。都会の真ん中とは思えない雰囲気だった。
「失礼ですが、香川教授と田中先生では有りませんか?奇遇ですね」
そう言って声を掛けてきた男性が居た。香川教授は有名人なのでそういうこともあるかと予想していたが、自分まで名前を覚えられる心当たりがないので驚いてその男性を見る。肩書きで呼ばれたわけなので、グレイスの客ではないことだけは確かだった。
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