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第八章 第10話
「誰だろう?」
怪訝そうに中年男性を見詰めた。ちらっと教授の方を見ると自分と同じ表情をしている。
「失礼しました。私はこういう者です」
上質の皮の名刺入れから――多分どこかのブランド物だろう――洗練された動作で名刺を二枚取り出し、ビジネスマナーのお手本にしたいような動作で、まず香川教授、次に祐樹に名刺を差し出した。
東京証券市場一部上場企業――祐樹が教養学部の学生の頃、経済学の講義で、一部上場企業は自他共に認める大企業だという知識はあったが、この会社名に見覚えはない。
名刺には「取締役・田辺聖一」と書いてあった。チラリと教授の顔を窺ったが、彼にも心当たりはないようだ。
「少しの間同席しても宜しいですか?」
祐樹が教授の表情を見ると苦笑を浮かべている。祐樹とて彼と一緒の時は他人に煩わされたくはない。「しぶしぶ」という自分の感情が出ないように微笑して、教授に目配せした。
「どうぞ」
教授は目配せを見て表面上は和やかに席を勧める。座った田辺氏は2人がコーヒーを飲んでいるのを見て、先ほどの女性スタッフにコーヒーを注文した。
「弊社の鈴木がお世話になっています。誠に有り難く思っております。色々便宜を図って戴いて・・・」
なるほど、祐樹の受け持ち患者である鈴木さんの会社の人間だったのか…と納得した。 鈴木さんの病状を見に行っても、見舞い客まではイチイチ覚えていないが、向こうは覚えていたのだろう。
「失礼ですが、私をご存知なのは分かりましたが…香川教授までご存知とは…?」
背筋を伸ばしてコーヒーを一口飲み、マナー通りにカップを受け皿に置いてから田辺氏は言った。
「田中先生が会長の病室にいらした時にお顔を拝見いたしました。そして会長の手術――と言っても会長はそれを望んでいらっしゃいませんが――の執刀医の先生が香川教授になるという話を伺いまして、失礼ながら教授の実績などを調べさせて戴いた時に「○レジデント」に顔写真入りで載っておりましたので…」
「え?鈴木氏は会長職でいらっしゃったのですか?」
一部上場企業の会長ともなると今入院している4階よりも、特診患者さんの病室の5階が相応しい。
「はい、会長は一代で会社を興し、この規模の会社にした方です。ですが、特別扱いが嫌いなお方ですので…病院にも勤務先こそ正直に書いたようですが、肩書きはぼかしたようですね」
「一代で、一部上場企業になるのは並大抵の努力ではないでしょうね」
教授も感心したように言った。
「ええ、会長は寝食を忘れて働かれて…良い後継者も決まり、現役引退の決意を固められた時に心臓が…。会長はとにかく仕事のスピードが常人の3倍くらいでして…それに必死に着いて行くうちに業務が拡大していった結果です。幸い、この未曾有の不況でもそこそこの収益が会社に上がっているのは会長の仕事振りを社員がマネしているからだと思います。
と、話しはずれましたが、どうか、会長を宜しくお願い致します」
そう言って機敏な動作で立ち上がり、深々とお辞儀をすると――招かざる客だと自覚していたのだろう――立ち去って行った。
「鈴木氏が社会でも成功した人間だろうとは思っていましたが、まさかこれほどの立志伝中の方だったとは…」
「そうだな…。特診患者にもこれほどの大企業の会長は稀だから…」
教授の苦笑している。
「何か、邪魔が入りましたね。シャンパンでもオーダーしますか?」
「ああ、ずっと飲酒を誰かさんに止められていたので、飲みたいな」
薄く形の良い唇が笑いの形に弛んだ。
「当たり前です。病人に飲酒など勧められません。ただ、私だって教授にお付き合いして飲んでませんよ?」
「それは…すまなかった…」
心の底から反省しているように彼は目を伏せた。その動作で睫毛の影が出来てとても綺麗だった。
「いえ、引き受けたのは私ですので、どうか気になさらないで下さい」
シャンパンを二つ注文すると、先ほどの女性がキビキビとテーブルの上のコーヒー茶碗を片付け、シャンパン用のフルートグラスを置いた。そしてボトルを持ってくる。
シャンパンの銘柄を説明してくれたが、祐樹は生憎ワインの造詣が深くない。教授もあまり興味のなさそうな顔で聞いている。
フルートグラスにシャンパンが注がれる。細かい泡がグラスの中で優雅に動いている。大層細かくて綺麗な泡だった。オレンジを基調にした照明がフルートグラスを優しく包む。
グラスの足の部分に教授のしなやかな指先が絡む。祐樹もグラスを持ち上げ、縁を触れ合わせた。
「乾杯。教授の全快と、教授会がつつがなく終ったことに」
そう小声で言うと彼は笑うようにグラスに口をつけた。
「有り難う。随分祐樹には迷惑と心配を掛けた」
「教授のための迷惑や心配ならば、大歓迎ですが、しかし、体調不良には気をつけて下さいね」
2人とも咽喉が渇いていたのか、すぐにグラスは空になる。
「次の飲み物は何がいいですか?」
「祐樹に任せる。私は何でもいい」
「では、ワインにしましょう…ワインには催淫効果があると言いますから…ね」
小声で言うと教授は黙った。顔を見てみると、目蓋が薄桃色に染まっていてとても風情のある綺麗な表情をしていた。豪華な空間に身を置くと彼の少し小さめの顔はとてもよく調和していた。
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