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第八章 第13話

 アルコールで潤んだ瞳に見つめられると、思わず息を止めてしまう。この調子で「お願い」をされてしまったら何でも「はい」と答えてしまいそうだ。  その時、照明が一段と落とされた。もともと静かなクラブフロアに大人の静寂が広がる。それぞれに客は居るのだが、内装に工夫があるのか…皆がそれぞれにアルコールが入っているはずなのに、酔客独特の喧騒は全くない。  しかも教授と祐樹のテーブルのあるエリアは、料理の並んだエリアからは少し離れているので人もまばらだ。この空間に居ると、ここが自分の住んでいる京都よりも都会の真ん中にいることがどうしても信じられなくなってしまう。落ち着いた木目調のインテリアのせいだろうか?それとも教授と2人で静謐な空気の中に居るせいだろうか?  ここに居るのが2人だけという錯覚を覚えそうになるくらい…。辛うじて顔が分かる程度の照明だったので余計にそう思う。  当たり前だがそんなことはなく、斜め後ろには先ほどの女性スタッフのデスクが有るのだが。  教授は何か言いたそうな風情だが、なかなか口を開かない。そんなに言いにくい「お願い」なのだろうか…?と言っても祐樹が教授に出来ることと言えば限られているような気がした。まさかこの席で仕事の依頼はしないだろう…、多分。 「明かりが少なくなりましたね…」  何か洒落た言葉を…と思ったが、教授の瞳に魅入られたような気がして頭が上手く働かないので、結局陳腐な言葉しか紡げない。  祐樹の言葉を聞いた瞬間、唇を弛めた教授が腕時計を覗き込んでいつもの口調で言った。 「そういえば、この時間からは食事ではなく、寝酒を提供する時間だとか…」 「もうそんな時間ですか…?」 「いや、このクラブフロアは朝食が早いので、早めの時間設定にしてあるのだろう…な」  なるほど…と思った。祐樹御用達のゲイ・バー「グレイス」ではまだ宵の口の時間だ。 「私が教授のために出来ること…は、そんなにはないとは思いますが。一つ目は?」  教授は一瞬目を閉じて、思い切ったように開く。睫毛の陰影がとても綺麗だった。 「ここの支払い…祐樹がしてくれる予定だったのだな…」 ――それはさっき言いました――と心の中で突っ込むが、口には出さない。出したら最後彼は何も言わないような気がする。強情な場面もあるが、とても繊細な部分を持っている人だというのが最近分かってきた積りだ。だが、その落差も好ましく感じた。 「ええ、その積りでしたが?」 「杉田弁護士からの回答は水曜日以降に届くというのは、変更は?」 「特に連絡は入っていないのでそのままでしょう…」  答えながら、仕事絡みの「お願い」かな?と思った。 「星川看護師の件は多分私が何とか合わせれば大丈夫だろうと思うが…」 「ええ、私も手術室には入りますよ?大丈夫では?」  話が全く予想出来ない。「お願い」などされなくても教授の手術と体調のフォローはする積りだったし、事実実行してきた。今更何を話し出すのか…? 「それで…祐樹はここのホテル代一回浮いた形になるだろう?」 「ええ。なりますね」 「だから…」  だから、何か早く言って欲しかった。基本的に焦らされるのは好みではない。教授は焦らしている積りは全くなさそうで目は真剣な光を湛えていたが…。 「だから」   もう一度言い掛けて、唇が乾いたのかちらりと舌を出して唇を舐める仕草が艶かしい。 「一回分浮いた予算で水曜日までにもう一度ここで…逢って…欲しい」  正直、脱力した。そこまで言うのに躊躇する内容なのだろうか?祐樹の過去のお相手は知り合った日にホテルにお誘いをして来た男性が圧倒的に多かったのだから。  ただ、教授はあくまでも心配そうに祐樹の返事を待っている。先ほどからナイフもフォークも止まったままだ。  初心な人な一面を持っている人だと思っていたが、これほどまでとは…正直思わなかった。 「いいですよ。阿部師長に教授から掛け合って下されば、夜勤は免除されますから」  その位はお安い御用だと思ったので即答した。研修医の給料が安いと言っても、ここのホテル代位は充分賄える。  教授は身体中の筋肉が弛緩したように椅子に身体を預ける。が、決してだらしなくは見えないのが教授の身上だ。 「確か、もう一つの願いが有りましたよ…ね?こちらも星川看護師絡みですか?」  自分でも自覚しているが、祐樹は短気なところも有る。先に願いとやらを聞いておきたかった。 「絡みといえばそうなのだが…」 「これ以上、もったいぶると…部屋で何をするか分かりませんよ。うんと恥ずかしいコトしましょうか?」  ワザと口角を吊り上げて意地悪な目つきをする。「意地悪な目つき」は祐樹の得意技だ。滅多にしないが。  そう厳かな口調で告げると予想に反して彼の頬は、ほの暗い照明でもはっきり分かるほど紅潮し、瞳もますます潤んできた。泣くわけではなく他の…多分欲情で…。  想定外だったが、嬉しい誤算かもしれない…と密かにほくそえむ。 「…分かった。言う、言うから…」 「はい。承ります」  先ほどの目つきは引っ込めて丁寧な口調に戻る。  教授はワインを飲み干して、スタッフにお代わりの合図をした。祐樹のグラスも空になっていたので、グラスを下げて貰い、新しいグラスに血の色のワインが注がれた。そのグラスを一気に飲み干して教授は幾分早口で言った。 「部屋に1人で居ると、居ても立ってもいられなくなる、だから…星川看護師の件が片付くまでは、祐樹の部屋に居たい。…ダメだろうか?  祐樹が居ない時は許可のないところは絶対に触らない。自分の部屋に居るよりも祐樹の部屋の方が落ち着く…か…ら」  そんなささやかな願いだとは思わなかった。この二件の願いくらいで、これほどの時間を要するとは…。ますます教授の内面を知りたくなった。 「あんなに狭い部屋で良ければ使って下さい」  そう言うと、この照明でも充分に分かるほど、教授は晴れやかにそして天使のように無垢な笑顔になった。ますます彼の全てが知りたくなる。

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