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第八章 第14話

 早く部屋に行って二人きりになりたいという濃密な情動と、この独特の西欧調の豪華で居心地の良い現実離れした空間でもう少し話したいという淡い切望がせめぎ合う。  どちらにしようかと・・・いつもは躊躇せずに欲情を優先する祐樹ですら迷ってしまっていた。  彼は祐樹が快く(?)承諾してくれたのが余程嬉しかったのか、先ほどよりも明るい顔で一輪の薔薇の花を模したスモークサーモンの花びらを残した形で綺麗に切り分ける作業に没頭しているように見える。時々祐樹の顔を視線が掠めるが。  クラブフロアが閉まる時間にはまだ間に合うので、取り合えず祐樹もワインを飲み干して考えることにした。  流石は世界的に名前が知られているホテルのスタッフだ。祐樹行きつけの居酒屋などのように、また山本センセが案内してくれた京都のホテルのバーとは違い、飲み干して直ぐにお代わりを聞きに来るわけでもない。無料でサービスしているので、経費の関係か?とも思ったが、どうやらゲストの飲み方に合わせて聞きに来てくれるらしいと気がついた。  祐樹がちらりと空のワイングラスを持って背中越しにスタッフを見ると、彼女は心得たように新しいワイングラスを二つ持って来た。 「同じワインで良いでしょうか?」  彼に確認すると澄んだ瞳を上げて言う。 「ああ、祐樹がそれでいいなら」  スタッフに目配せをすると新しいワインが運ばれて来た。祐樹にとっては予想だにしていなかった幼い「お願い」を聞いた直後なのだから、もう少しここで話してみようとワインを飲みながら思った。彼の口も少しは軽くなるだろう。  教授は、スモークサーモンで出来た薔薇の花の形を崩すことなく綺麗に二等分して半分を祐樹の方へ押しやってからワイングラスをゆっくりと傾けている。  が、何から聞けばいいのか、正直分からない。彼が男性の方を好む性癖があるのは知っているが、下手に過去の話を聞いてしまうのも正直怖かった。付き合った男性の数はそうは多くないとは分かっていたが。それでも、彼が自分以上に心を傾けた相手が居た…という話を聞くと逆上しそうだった。祐樹にとってこれは生まれて初めての感情だった。今までの相手なら根掘り葉掘り聞けたし、別に嫉妬もしなかったので。  が、教授の口から生々しい過去の男性遍歴を聞いてしまうのは怖い。女々しいかも知れないが…。 「質問しても良いですか?」  声を掛けると教授は弾かれたように顔をこちらに向ける。 「ああ…」 「女性と付き合ったことはありますよ…ね?」  直球でなく外堀から埋めて行こうとする。 「言わなかったか?高校の時に、ある病院の院長先生に『娘との結婚を前提に付き合って貰う。その代わりに学費を含む生活費を援助する』という条件が提示された。そのお嬢様と付き合った…ということになるのだろうな…多分」 「多分…って何ですか?」 「何って…私は受験生だったし、2人きりで逢ったのは数回だ」  その話は以前聞いたことがある。確か、そのお嬢様は亡くなったとか…。 「では、健全なお付き合いってヤツですか?」 「当然だろう?可愛い人だとは思ったが。そして、この女性と結婚するのか…とはぼんやり思ってもみたが…それよりも模試の成績をキープする方がずっと大事だった…」  初体験はそのお嬢様とやらではなさそうだ。確か大学に入る前に亡くなったと聞いているので。  どうしてそんなことを聞くといった怪訝な表情をする教授だった。この人は祐樹が何を聞きたいのか分かっていないのだな…と思う。普通ならピンと来そうな雰囲気の場所で真剣に話しているというのに…。 「その後は付き合った女性は?」 「居ない。大学に入ってからは学ぶべきことが受験生だった頃よりももっと増えたからな」  確かに大学の授業はキツい。が、祐樹は上手くバランスを取って勉強と恋愛をやりくりしてきた記憶がある。恋愛ではなく、情事かもしれないが。 「臨床課程に入るともっと忙しくなった。同じゼミに女性が居たかも覚えていない」 「しかし、アメリカ時代、長岡先生もいらしたのでしょう?彼女は美人だし、少しは気になりませんでしたか?」  彼が一番心を許し、かつ恋愛対象になりそうな女性を挙げてみる。 「長岡先生は…初対面で『憧れの人です』と言われてしまって面食らった覚えしかない。しかも、その時に『裁縫は得意ですか?』と聞かれた。」  聞きたいことから微妙にブレるのは分かったが、何故裁縫が出て来るのか分からないのでツイ聞いてしまった。 「何ですか?裁縫って?」  薔薇の花びらに見立てたスモークサーモンを優雅に口に運びながら教授は答える。 「彼女は裁縫が大の苦手なのだそうだ。なので、裁縫が出来る人は尊敬の対象らしい」 「裁縫…って外科実習の時に結び方を習って、白衣にたくさん糸で結び目を作って皆で競いませんでした?」  予想もしなかった話にワイングラスを宙に浮かせたまま話す。 「ああ、したな…特に赤い糸で綺麗な結び目を目立つように作ったものだった」  懐かしそうな目をする教授の顔も、そそられる。 「ですよね?医学生なら裁縫などは得意なハズですが?」 「長岡先生は、外科分野の成績は落第ギリギリだったらしい。それに国立の大学は国が援助していただろう?彼女を留年させるのは税金の無駄遣いだから泣く泣く単位をくれた教授もいたそうだ」  完璧な才媛という長岡先生のイメージが崩れる。そのギャップに笑いを誘われ、つい聞いてしまった。 「では、男性の方の初恋はいつですか?高校の頃?それとももっと下でしたか?」  そういう性癖を持つ人間なら小学生の時に同性に目が行っていてもおかしくない。祐樹の体験や、「グレイス」での話を総合する限りは。殊更、声を潜めて聞いてみた。  すると、彼の瞳が一瞬強い輝きを放った。ほの暗い空間でもはっきりと分かるくらいに。  その瞳の力強さは、教授の就任の挨拶で祐樹が反対意見を述べた時よりも強い光を放っていた。全身で彼の瞳の強さを受け止めているような錯覚を覚える。呪縛されたかのように全身が震えた。

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