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第八章 第15話

 普段の教授は優しげな顔立ちに相応しい温和な目をしている。その瞳がこんなにも鋭い輝きを発するのか…と、祐樹は驚嘆の眼差しで彼の顔をじっと眺める。  というよりも、目が離せない引力があるかのようだった。  もう、室内の優雅な内装も、ガラス越しの大阪平野の夜景も、他の客達が静かな口調で話す声やBGMで流れていたクラシックの曲さえ、祐樹の目や耳がシャットアウトしてしまったのか。この空間で彼の存在だけを感じていた。 「祐樹はどうなんだ?初恋はいつなのだ?」  しばらく経ってから彼は逆に質問してくる。瞳は相変わらず強い光を放っていたが、口調は穏やかだった。あの瞳の光の残照が脳裏に残っている。そのせいか、誤魔化したりはぐらかしたりする気持ちには何故かなれない。  また、自分のことを知って欲しいという気持ちを初めて他人に感じた。 「男性の?それとも女性のですか?」  彼が斬り込むような口調で聞いてくるので、敢えて笑いを浮かべはぐらかす。 「……男性のほうだ」 「そうですねぇ…そういう意味で同性を意識したのは中学2年でしたね。相手は同じ学校の3年生でした。クラブが同じなどの接点はなかったのですが、偶然すれ違う時などドキドキしていました…」 「で、付き合ったのか?」  これが時代劇のチャンバラだったら裂帛の気合いで刀を振り下ろされるな…と思われる声で教授は言う。どうしてこんなに真剣なんだろう? 「いえ、まさか…。声すら掛けられずに、その先輩は卒業して行きましたよ。どこの高校に入ったのかも知りません」  彼の瞳の力が少し弱まる。 「それで…そのう…初体験は…いつ?」 「ああ、高校に入って直ぐでしたね、確か。男性に表現するのはおかしいかも知れませんが、同級生に綺麗な人が居て…、目で追っていたら向こうから声を掛けて来てくれました。『付き合って欲しい』と。それで付き合うようになったのです。向こうから誘ってきたので、彼の部屋にこっそり忍び込んで――かなり大きな家でした――それでそういう関係になりました。確か高校一年の夏だったかと…」  朧げな記憶を必死に掘り起こす。事実と異なっている予感満載だったが、目の前の彼に調べることは出来ないので断言した者勝ちのような気がする。 「その人は綺麗な人だったんだな…」  何故か悲しそうな色を滲ませた教授の声だ。目の前に居る人の方がもっと綺麗なのに…。 「それで?その人とはずっと付き合っていたのか?」  今度は、示現流――薩摩藩に伝わる剣の流派で、一撃で人に致命傷を与えるために考案されて幕末はかの新選組も恐れた剣法だ――の掛け声の「チェスト」と言われて刀を振り下ろされたのかと錯覚するほどの声の勢いだった。 「教授は…あまり、付き合ったことがありませんよね?男性と…」  説明をするために、確認ではなく前置きの積りで言った。するとアルコールで上気していた頬がますます紅くなった。 「…………ああ、祐樹の言う通りだ」 「では、お分かりにならないと思いますが、結構この性癖を持つ人間は、熱しやすく冷めやすい人が多いんです。で、2ヶ月付き合った時に向こうから『好きな人が出来た』と言われて別れました」  今度は不可解な顔をされた。 「そんなに簡単に別れられるものなのか?心残りなどはなかったのか?」 「私もそろそろ飽きてきたな…と正直思っていましたし、別に心残りはありませんでしたよ」 「……そういうものなのか?で、祐樹は、次に付き合ったのは?」 「その三週間後ですね。付き合っていた頃に紹介されてた元カレの友人でした。別れたのを知って『付き合ってみないか』と誘われたので…」 「その人とはどの位付き合った?」  何となくドラマで観た警察の事情聴取のような感じになってきたが、乗りかかった船だと思い、正直に申告する。 「告白されたその日に深い関係になって…それから3ヶ月…いや、3ヶ月付き合ったのはその次の人だ…2ヶ月ほどですかね…」  教授は頭痛をこらえているような顔をしている。  この人も初めてではないというのに…随分初心な反応をするな…と思った。彼は1人の人と長く付き合って来たのではないか?と疑ったことが有ったが、この反応ではビンゴかも知れない。 「祐樹は何人の人と付き合ったんだ?」  無理に声を出そうとしているような声で聞いて来る。 「それは、寝た人の数ですか?それとも、ある程度恋人として付き合った人の数ですか?」  一回きりということも、成人してからは随分あったのでツイツイ真面目に聞いてしまう。 「一回きりというのも有ったの…か?」  表情の選択に困りきったような顔で質問が重ねられる。 「ええ、ありましたね。で、付き合った人の数ですが、ええっと…」 心の中でカウントしてみたが、余りに多くて少し酔った頭では正確な数値が出て来ない。 「10人前後です」 「そんなに?そんなに好きだった人が居るのか?」  絵の美しさを売り物にする画家が真剣な筆致で描く「美人の驚愕」と言う絵があるなら、きっとこんな顔をしているだろう…と祐樹が勝手に思う表情を彼は浮かべていた。 「それで、今でもその中の一人を忘れられないとか?」  真摯な表情で聞かれた。 「いえ、そんな人は居ないです。別れた瞬間、過去の人になりましたから。自然消滅も多かったですし」  いつの間にか、ワインを飲む手がお互い止まっていた。 「教授には忘れられない人がいるのですか?」  表情に何か引っかかるものを感じて聞いてみた。

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