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第八章 第16話
「私の過去の話は、祐樹に比べるととてつもなく詰らないと思う…だから、もう少し祐樹の恋愛遍歴のことが聞きたい…駄目か…?」
――ダメです!教授のことを聞かせて下さい!――
そう断言する積りだったのだが。目の前に座っている教授の瞳が祐樹の乏しいボキャブラリーでは表現出来ないほどに綺麗だった。誰も訪れることがない高原の湖の美しさに似ている。神秘的な湖の深淵を覗き込むと、ツイその中に入ってしまいたくなる――たとえ、それで命を落としても良いと感じさせるほどに――
また、彼の表情は、手術の時よりも真剣さをはらんでいるような感じだった。その瞳の魔力には抵抗出来ない。
「私も告白されたら心は動きますよ…特に好みの人の場合は…。でも一回そういう関係になって、『どうも身体とか心の相性が合わないな…』と思った時は、自然消滅に持ち込みます」
クラブフロアのゲスト達はそろそろ自分のリザーブした部屋に移動するのだろう…二人のテーブルの近くを通り過ぎる客が多くなった。
祐樹の患者さんの部下――今は、教授のことで頭が一杯なので、教授ほどではないにしろ、祐樹自慢の記憶力もだいぶ低下しているようだ――。なので咄嗟に名前が出て来ない。その人も2人のテーブルにわざわざ挨拶に来てくれる。その律儀さは分かるが、二人の会話が佳境に入った今、無視して通り過ぎてくれればいいのに…と駄々っ子めいた、どす黒い感情がわきおこる。
教授も名前が出てこないらしい。2人とも貰った名刺は各々の名刺入れに仕舞ったのが祟った。固有名詞を省いた話し方で鈴木さん――祐樹の患者だ――のことは田中先生と充分検討し、病状説明も本人に納得して貰った上で、どうするか決めます。といつもの冷静な声と表情で答えていた。
――彼が名前を度忘れするとは?――と不思議に思ったが、その客に丁寧に挨拶をされたので返しているうちにその件はスルーしてしまっていた、迂闊なことに…。
「ところで、先生がお2人とも大阪のホテルにお泊りとは、学会か何かですか?」
顔には出てないが、酔っているのだろう。立ち入ったことまで聞いてきた。
さて、どう答えるべきか一瞬迷った瞬間に教授の涼しい声がする。
「学会は日曜日なのですが、発表しなければならないのです。内容は9割がた出来ているのですが……。最後の詰めをするために、田中先生と作家で言うカンヅメをしようと思いまして、こうして泊っています」
なるほど、こう言って置けば、二人が同室であることが万が一にでもこの人にバレた場合でも良い訳は出来る。咄嗟の機転の働きは、彼のシャープな頭脳を再確認させられた。
「それはもちろん自費ですよね…いいですね、お医者様は優雅で…」
邪気のない顔で感想を述べられた。世間ではやはり医師=お金持ちという誤解がまかり通っているのか。だが、実際にお金持ちの勤務医は少ない。大学病院に勤務していた医師が、教授の逆鱗に触れた場合、関連病院に「嫌がらせ」で飛ばされることはある。――香川教授はしそうにないが――その場合、病院は「非常勤」として受け入れ、給与も行ってみてから金額が分かるというシステムの病院は多い。祐樹の知り合いもそんな境遇の医師が居た。
彼は「コンビニかレンタルビデオ屋で一生懸命働く方が儲かるような気がする」とメールをしてきたというエピソードがある。医師の世界もここ数年で激変した。世間で考えられているよりも現実は過酷だ。しかも責任は重い。
誤解を正したく思ったが、それを言ってしまうと、クラブフロア階に宿泊しているのは何故か?と思われるだろう。結局黙った。
丁重な挨拶をして彼が行ってしまうと、教授は苦笑いをして祐樹に告げた。
「祐樹の話を聞いていたら、彼の名前が脳から飛んでしまっていた…」
「実は私もです…」
そう言って笑った瞬間、教授はホテルスタッフを呼びとめてワインのお代わりを頼んだ。2人ともいつの間にか空になっていたので。
新しいグラスが運ばれて、重厚かつ静謐な2人の空間が戻ってきた。
湖の水面のように揺れる瞳が祐樹をひたと見詰める。
「で、自然消滅…。祐樹はどうやってそう持ち込むのだ?」
――自然消滅したい相手でもいるのだろうか?――そう思ったが、彼は今、自分としか付き合ってないハズだ。何故そんなに執拗に聞かれるのか分からなかったが、彼の瞳の魔力には逆らえない。
「約束をドタキャンします。または、ドタキャンすらしないで待ちぼうけをさせると、相手も分かってくれるみたいですよ…」
この言葉を発している時は、英会話学校に通っている生徒が講師の発音を覚えようと必死に口元を見ている…そんな感じの教授の様子だった。
「…過去の人達はそれで引き下がったのか?」
「ええ、基本的には割り切ったお付き合いをしてきましたから」
「もし、引き下がらなかったら?」
教授の瞳が良く切れる日本刀のような輝きを放つ。この場合の日本刀は、国宝クラスの美しさを持つ刀だろうが…。
「その場合は、考慮の余地は有りますね。私のことをそれほど好きということですから…」
そう言ってワインを飲む。教授も目の光を和らげて、つられたようにワインを飲んでいる。
彼は咽喉が渇いていたのか、まるでペットボトルを飲み干すように顎を上げて飲んでいるので、彼の細く白い首が、仄暗い空間に浮かび上がる。ワインを飲み下す時に上下する優雅な首の白さと動きに、半ば陶然となる。
「他に私について聞きたいことは?」
空になったワイングラスを静かにテーブルに置いた教授は、ほんのりと微笑する。「モナリザ」の謎めいた微笑を連想してしまう。見る人間が全て「何に対して笑っているのだろう?」と思わせるところがそっくりだ。
「いや、充分聞かせてもらった。…・・・そろそろ、このフロアが締まる時間らしい。コーヒーと水が飲みたいな…」
その言葉を偶然通りかかったスタッフの女性が聞き、「承りました」と言った。
「では、デザートを見繕ってきますね」
いよいよ部屋で2人きりだ…そう思うと、初体験でもそんなに緊張しなかった…と思うほど心臓が高鳴る。
彼をベッドの海で惑乱させて、祐樹が聞きたいことを充分に聞きだす積りだった。
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