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第八章 第18話
祐樹が予約したのは角部屋だ。このホテルは、一流ホテルがよく採用しているように、エレベーターを中心にしてHを傾けた形を取っていない。普通は、Hの横棒をエレベーターホールにして、各客室をずらっと並ばせる建築様式なのだが、このホテルは、建物が円柱に近い形をしているせいか、エレベーターを中心に客室を並ばせることはしていない。曲がりくねった廊下を歩かせて客室に行ってもらう仕組みだ。壁には絵画が飾ってあり、廊下にも美術品や骨董には全く知識がない祐樹が見ても「綺麗だな」と思うお皿などが、――多分高価なものなのだろう――飾り棚の中にあり充分に楽しむことの出来るがそこかしこにさりげなく置いてある。ちなみに、クラブフロアの宿泊客は、エレベーターの中に入り、自分の宿泊階――今日は36階だった――の下に鍵を差し込まないとエレベーターは止まらない。
廊下も狭く、大人が四人歩けるかどうかだ。必然的に寄り添って歩く距離になる。日常からかけ離れた空間だ。本当は、彼の細い肩を抱くとか、手を繋ぐこととかをしたかったのだが、廊下は当然、客室とドア一枚(といっても祐樹の安いマンションなどと比べ物にならない重厚な木で出来たものだったが)で隔てられている。もし、その部屋のゲストが何らかの用事でドアを開けるたら――クラブフロアでアルコールを呑んでいた人達は、居酒屋でありがちのように、ぐでんぐでんに酔ってない人ばかりだった。――男2人が肩を抱いている場面に遭遇してしまう。そうなれば、特殊な性癖を持っている人間だと宣伝しているのと同じだ。特に患者の鈴木さんの部下(結局2人とも名前は思い出せなかった)に会ってしまえば最悪だ。
部屋に入るまでは、肩を並べて歩く方が賢明だと思った。
隣を歩く教授の顔をちらりと見る。彼は何やら考えているような顔をしている。
――そういえば、教授が体調不良でウチに泊っていた時、「どうして抱いてくれない?」と聞いてきたことがあった…あの時はロヒブ(鎮静剤と睡眠薬を兼ねた薬品)を注射した直後だった…。ああいう薬品は、心の中で思ったことしか言葉に出ない――
「祐樹」に抱かれたいのだろうか?
その予測はあまりにも甘美で祐樹に陶酔をもたらす。
――彼が、「そういう経験」に慣れてないことは分かっている。もし、これが「男なら誰でも良い」と思うような経験豊富な人間だったなら、単なる欲求不満の表出とも考えられるが、そういうわけではない――
そんなことは祐樹にも分かる。
――いつからかは知らないが、教授は祐樹のことを好きになっていてくれたのかも知れない――
この結論に達した時、雷に打たれたような衝撃が走った。
「祐樹?その先は壁だぞ?」
相変わらず冷静な教授の指摘で我に返る。考えに耽っていた祐樹は自分達の――といってもお金を支払ったのは教授だが――部屋を通り過ぎていたことに気付かなかった。
「すみません。すこし頭の中がぼうっとしていたようで…」
「私が、祐樹の部屋に行ったので寝不足になったのでは?」
祐樹がアルコールに強いことを知っている教授は眉間にシワを寄せ、心配そうに聞いて来た。
「いえ、体調は万全です。教授がウチに泊って下さったお陰で救急救命室での夜勤が減ったので、睡眠時間は充分取れています」
教授は、廊下を照らすオレンジ色の光を浴びて、ほんのり微笑した。
「そうか…。それは良かった。ただ、阿部師長は祐樹を買っているので、私が治った途端助っ人依頼が、北教授を通じて院内メールで毎日のように来る…」
「医師としての腕を買われるのは、『仕事が出来る』とあの百戦錬磨の阿部師長に認められたようで嬉しいですが…そうなると、教授とこうやって逢う機会が減るのが残念です」
このホテルは、エレベーターと共通して使うためか?それとも他に理由があるのか、カードーキーではなく、昔ながらの「鍵」だった。その鍵を開けていた教授は、祐樹の最後の言葉を聞くと、手が止まった。が、何も言わずに開錠し、部屋に入った。
祐樹も後に続く。
「やはり、このホテルの部屋はいいですね。何だか落ち着くような気がします」
「ああ、そうだな…」
扉にもたれて祐樹が言った。教授は木製の扉で隠されている――つまり扉が二枚有って、一枚目は木製、その後ろは普通の冷蔵庫の扉だ――冷蔵庫を開けている。
「本当だ。Rホテルのチョコレートは入っていない。入っているのは、○ディバのチョコレートだ」
感心したように呟いている。何か必死に話題を見つけるように努力している感じだった。
祐樹も部屋に入り、フッド・レスト付きの安楽椅子に座った。
「教授…チョコレートはお好きですか?」
意識して低く響く声を出す。
その声に脊髄に電流が走ったのだろう。身体を一度震わせると数秒間は冷蔵庫を見ているフリをしていた教授が振り返った。
「ああ、御菓子の中ではチョコレートが一番好きだ」
「実は私もなんです。先ほどスタッフから貰っていましたよね…あれを食べさせて下さい」
口調は丁寧だが、声はそのままだ。
「もちろん、良いが?」
そう言ってホテルのロゴ付きの紙袋から、バレンタインの時に貰うような円形や楕円形のチョコ――正確にはトリフ・チョコだ――を取り出した。
彼はチョコが体温で溶けてしまわないように綺麗に切った爪の部分で持ち、冷蔵庫の上の部分に置いてあった皿に移して持って来た。
安楽椅子の横にサイドテーブルがある。そこに置いて身を翻そうとするのを、腕を握った。
「チョコも甘いですが、教授の甘い唇も味わいたいのですが…」
そう囁くと彼の白皙の顔が紅に染まる。
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