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第八章 第19話
ホテルの室内に入った途端、祐樹は困惑していた。
ドアの前に立ち、相手の様子を探るのはいつものことだったが…男女を問わず相手の行動は2パターンしかなかった。
1つ目はドアを閉めるとすぐに抱きついてくる人間だ。同性をホテルに誘った場合は殆どがこのパターンだったが、女性でもいなかったわけではない。情熱的で奔放に振舞うのが好きで、期待してここまでついてきたことを隠さないタイプだ。
2つ目は、ドアから直ぐに室内を突っ切り、窓の外を眺めるタイプだ。「夜景が綺麗ね」などとは言ってはいるが、夜景を見ているわけではなく抱き締められるのを待っている、意外としたたかな人間だ。
こういう人は後から「こんなコトをするつもりじゃなかった」と決して本気ではなく叱られる場合もあった。女性に多いのだが「誰にでもついて行く人間ではないのよ」と自分を高く売りつけようとする下心が見えている。特に医学生時代は合コンのお持ち帰りでこういう女性は多かった。「ならば、最初からホテルに入るな」と思い、相手を見限ったものだが。
祐樹は最初の行動様式を取る人間の方にこそ好感が持てた。ホテルの部屋に抵抗もせずに入り、「安い女じゃないのよ…」と行為が終ってから言う人間は信用出来ない。本当に嫌ならホテルに入る前にそう言えばいいのに…と思ってしまう。いい年をした男女がホテルに入って何をするかを知らないわけがないのだから。――こういうところから男性の方が好きになってしまったのかもしれないな――と思う。男はもっと潔い。男性にもこういう手合いはいるがごくごく少数だった。女性の方が医学生との結婚を夢見ていたからなのだろうか?
しかし、教授はどちらの行動も取らずに冷蔵庫の中身をまず確かめに行った。別に飲み物を取るとかそういった目的ではなく、本当にチョコレートが冷蔵庫にないことを確かめるためだけに…。
祐樹のこういうパターンの行動を取られると次のリアクションに困惑してしまう。
ホテルの廊下を歩いている時、漠然とながら教授はドアが閉まると抱きついてくるだろうと思っていた。彼は潔いし、多分、祐樹に対して好意以上のものを持っていると予測していたので。間違っても夜景に見入っているフリはしないだろうと思っていた。その想像は合ってはいたが、チョコレートを確かめに冷蔵庫を開けるとはまさか思ってもみなかった。彼も別にチョコレートに格別の思い入れがあるとも思えない。
「男は意外性に弱いな…」とそうつくづく思った。そんな彼がより一層愛しく思える。
と、同時に、彼はこういうことに慣れていないと何度目かの確信を持った。鎮静剤で意識が飛んでいる時に「どうして抱いてくれない」と迫った人だ。本音がそうなのだから、内心期待してホテルに来たに違いない。ならば前者を取りそうだ、慣れている場合は。
仮に過去の男性とホテルを使用せずに相手の家かどこかで逢引をしていたにせよ、そういった誘い方は場数を踏めば自然と分かるようになる…と祐樹は思う。
仕方なく室内に入り、フッド・レスト付きの椅子に腰をかけた。
彼がチョコレートをそんなに気にしているのなら、チョコレート付きのキスもいいかもしれないと。甘いものは教授同様、好きではないがチョコレートなら食べられる。
彼がホテル備え付けのリチャード・ジノリの皿にチョコレートを並べて持って来た時、彼の腕を掴んで、キスを強請った。
キスも、そしてそれ以上も交わしている間柄だというのに、教授は初々しさを失わない。
世の中の大部分の男性は(と言っても、その場合対象は女性だろうが)初心な点を愛でるだろうが、生憎祐樹は俗に言う「可愛い人ほど苛めたい」という我ながらひねくれた性質だった。と言っても、ベッドを共にした相手全てにそうしているわけではなかった。特に、何故か教授には無性にそう振舞いたくなる、何故だか自分でも分からないが…。
皿がテーブルの上に置かれた時、口移しで食べたいと言ったのもその表れだった。オレンジを基調とする照明が煌々と点いている中、彼の端整で甘やかな顔を息を止めて見惚れていた。
僅かに震える長い睫毛が影を作る。数秒の躊躇の後、彼はチョコが溶けないように、綺麗に切りそろえてある爪の部分を持ち、桜色の唇の中に入れた。そして、祐樹が座っている椅子の頭部部分に跪き、祐樹の頭を固定すると唇を重ねた。
重なった唇が僅かに開いて、チョコレートが口移しに祐樹の唇に当たる。もっと大きく唇を開き、教授の口で溶けたチョコレートを味わう。
祐樹の好みからすれば、このチョコレートは甘すぎたが、教授の口の中で溶けたものだと思うと、もっと甘くても食べられそうだった。お互い、目を開いて相手を見ている。視線を絡ませたままのキスは――それも、目蓋まで紅くした教授の壮絶な色香を纏った顔を見るとより一層――目が離せない。
「美味しいか?」
幾分心配そうな教授の顔も、そそられる。
「ええ、美味しいですよ。もう一つ下さい」
そう言うと彼の唇は、花が咲いたように微笑った。
今度は、チョコレートだけでなく、チョコレートの味と香りがする教授の口中を貪った。少し気になっていた甘さが、極上の甘露に変わる。チョコレートは教授と祐樹の口の中で溶けていたので、唇に茶色の跡が残っていたのだろう。教授は舌でそれを拭ってくれた。次いで自分にも同じようにする。桃色の舌が茶色のチョコレートを舐めている様子が妙に色っぽい。あの舌で「白いモノ」も舐めて、口の中に入れて欲しい。そんな欲望が唐突に脳裏をよぎる。
「先ほどのワインの香り…相手の口の中では本当に媚薬みたいだ…」
恍惚の表情を浮かべた教授が跪いたまま言った。その言葉と声の調子に祐樹の背中にぶるりと電流が走った。
「ベッドへ…行きましょうか?」
随分場数を踏んで来た祐樹にとっても初めてだったが…ベッドに相手を誘うときに声が掠れた。
彼の力の抜けた腕を支え立たせると、教授の身体に力が戻った。瞳は相変わらず潤んだままだったが。
「さて、どうしたいの?」
ことさら優しげに聞く。
「して欲しいことが有ったら、言葉で言うか、行動に出るか…二つに一つですよ?」
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