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第八章 第20話

 また、教授は祐樹の予想外のことを言う。  祐樹は、ホテルの一室、しかも、キスまでしたのだから次はベッドの上に関連したお願いごとを言うか、またはするかと思っていた。殆どの下心のある男性はそう想像するだろう。  木目調の家具がオレンジ色の光を柔らかく反射する豪華な室内で、彼は言った。 「仕事の時はともかく、こうして2人きりで居る時は『聡』と呼んで欲しい」  想定外のことを、それも真剣な眼差しで言われる。祐樹は絶句した後、思わず笑ってしまった。意外性が高いほど、恋情は高まる。  彼の形の良い眉が不本意そうに上がる。 「そんなにおかしい願いか?」 「いえ、そうではなくて…」 ――予想外の言葉に笑ってしまっただけなのです。ベッドに関係することを聞いた積りだったから――  そう続けようとした祐樹は教授の顔が悲しみの色を湛えているのを見てギョっとした。 「それとも、祐樹に取って、私は下の名前で呼ぶには値しない人間なの…か?」  悲しさを耐えて無理やり発音しているような、そんな声だった。端整な顔も強張っている。 「そんなことは全くありません。教授と呼んでいたのは、習慣からです、他の意味はありませんよ。これからはご要望通りホテルでだけ下の名前で呼びます。それに、過去の恋人達には――過去のことを責められると、お詫びのしようもありませんが――あだ名しか知らない人や、フルネームを知っていても、苗字でしか呼んだことは有りません。教授が特別なんです。それに出会った時から『教授』と呼んでいたので、時期を逸しました。教授は『祐樹』と呼んで下さっていたというのに…」  必死で弁明すると、彼の表情が柔らかくなった。 「聡、自分で脱ぎますか?それとも脱がして欲しい?」  着衣のまま、綺麗にベッドメイキングされた片方のベッドに横たわる。流石に靴は脱いでいたが。 「聡」と呼ばれた瞬間、彼はいつものようにキビキビとした歩調ではなくなり、まるで夢遊病者のように――といっても祐樹自身夢遊病患者を診たことはないが――雲の上を歩いているような足取りで祐樹の居るベッドに近付いて来る。瞳は情欲のせいか、ますます潤み、薄桃色の唇も半開きだ。と言っても、口角が上がっているので彼の端整な顔立ちを損ねるものではなかったが。  祐樹が横たわったベッドの枕部分まで来ると、彼はそっと祐樹の耳に顔を近づけた。 「私が脱ぐのと、祐樹が脱がせるの、どちらが好みなんだ?」 「どちらも好みですが…今日は、自分で脱いで…下さい」  そう低い声で言う。彼は一瞬唇から血が出るのではないかと思うくらいに唇を噛み締めてから、上着をバサリと床に落とした。  祐樹の着ているそこらで買ったスーツと違い、彼のは名だたるブランドのスーツだ。 「シワになりますよ」   つい、貧乏人根性で色気のない発言をしてしまう。彼は紅の頬で祐樹を見詰めて事も無げに言った。 「別に構わない」  ネクタイを解く、彼の指が微細に震えて解き辛そうだった。しばらくネクタイを解くことに熱中している。 「手伝いましょうか?」  見かねてそう言ってしまう。 「いや、最後まで自分で脱ぐ」  彼の強情さは良く知っているので手伝うのは止めた。その代わりベッドから起き上がって、床に脱ぎ捨てられた上着をクローゼットに掛けた。やっとネクタイも外せたようで、それも床に無造作に落とす。それもハンガーに吊るすことにした。 「有り難う」   そう言って微笑う教授の顔は、凄絶な色気をはらみ、油断していると暴発しかねない。  彼がシャツのボタンをはだけると、祐樹が所有の証として付けた鎖骨上のキスマークが花の咲いているかのように綺麗に残っている。 「聡、とても綺麗だ」  敬語も省いて率直な感想を述べた。もちろん、男性二人連れという宿泊客なのでホテルでは当然のようにツインルームだ。クローゼットから戻った祐樹は教授の横に立って彼の生まれたままの姿になるさまを凝視していた。  その言葉が耳に入った瞬間、彼の身体はブルりと揺れた。慌てて手を差し伸べる。もしかしたら貧血が再発したのではないかと思って。 「大丈夫ですか?」  支えた身体は熱い。 「ああ、体調は全く問題ない。ただ祐樹に下の名前を呼んで貰えて感じただけだ…」  この人は、そんなにも下の名前に拘っていたのか…と思う。普段、職場でクールに振舞っている「教授」とは別人のようだ。下の名前…この人はアメリカ帰りだ。日本から出たことのない自分よりも、「サトシ」と呼ばれる回数は絶対に多いはずだ。 「もしかして、『サトシ』と呼ばれるとそれだけで興奮するんですか?」  少し尖った声になってしまった。自分の過去の話をペラペラと語ってしまったというのに、彼は嫉妬めいた感情は浮かべなかったことも引っかかると言えば引っかかるが、それよりも教授の過去の片鱗でもいいから知りたかった。 「いや、祐樹1人だけに呼ばれると…こうなってしまう」  祐樹の目を潤んだ瞳で凝視して言った。ウソは言っていない瞳だ。  彼の情欲を宿した瞳を見ると欲望が否が応でも高まる。セックスを覚えたての頃でもあるまいし…と自嘲するが、彼の瞳の魔力にはどうしても勝てない。 このままベッドに連れ込み、彼の感じている顔を余すところなく見たいという欲望が次第に高まる。が、「最後の一枚まで自分で脱ぐ」ともなると、彼の欲情も最高潮に達するだろう。それまでは目でじっくりと彼の身体を視姦したい。

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