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第九章 第9話
彼は綺麗な箸遣いで食事をしている。ただそれだけの動作なのに…。祐樹は詩人でも何でもなく、どちらかと言えば即物的な人間だったのだが。それでも、彼の動作の一つ一つに視線が釘付けになる。
彼の顔や動作がいつもと違う。瞠目すべき変化だった。まるで突然雪を割って日差しの下に現れた初々しい春の花のように、動作一つ一つに匂い立つ色気を感じた。
ホテルの部屋でも似たようなことを感じたのだが、窓の大きなクラブフロアのラウンジで見ると陽光も手伝ってかそのことが良く分かった。
北国の春…から連想で新雪を思い出す。京都では雪は滅多に積らないが、一冬に何度かは積雪があり宿直明けの早朝に見ることはある。その新雪は誰も踏んでいないだけに綺麗だが、その無垢な雪に足跡を残してみたいという子供じみた考えをつい起こしてしまう。今朝の教授の姿はその雪と同じだった。
無垢とは言っても、彼とは肉体関係まで持っている。厳密には無垢とは言えないが…ただ、こうして見ているとそんなラチもない想念が湧き上がる。
食事に専念していた教授がふと顔を上げた。その何気ない動きも匂い立つようだった。
「どうした?食事が進んでいないようだが?」
無意識に止めていた息を吐き出して、自分の考えていたことを言葉で言おうとした。が、適切な言葉が見つからない。口に出して言えば全てが陳腐な言葉になってしまうような気がした。それにここはオフィシャルな空間だ。あまり迂闊なことも言えない。
「いえ、何でも有りません。それよりお代わりは?全て召し上がって…食欲があるのが嬉しいです」
「スモーク・サーモンが絶品だったので、出来ればもう少し食べたい」
「分かりました。取ってきます」
「祐樹こそ、食べてない…。私は自分で取りに行けるから、その間に食べたらどうだ?」
「いえ、昨晩からだいぶ無理をさせてしまいましたから、座っていて下さい。取って来ます」
少しの負担も掛けさせたくないと思って席を立つ。スモーク・サーモンが綺麗に並んでいる皿から数枚取り、サーモン用の白いクリームとレモンを添えて新しい皿に盛り席に戻った。彼の前に置いて、自分の食事を片付けるべく食事に専念しようとする。が、ついつい目は彼の動作を追ってしまう。
――マズい――
彼はサーモンの上に白いクリームを重ねて口に運んでいる。薄い桜色の唇の端に僅かだがクリームがついたままだった。あのクリームが自分の白濁だったら…と、欲望が擡げてきてしまった。
「教授…唇の端に、クリームが…」
「ああ、有り難う。気が付かなかった」
舌で舐めるのを期待して言ってみた。が、彼はホテルのロゴが入った紙ナプキンで優雅に拭っただけだった。
あの唇に自分のモノを…とついつい妄想してしまう。
「教授…チェックアウトの時間が迫っていますが…もう一泊しませんか?貴方の身体も心配ですし…」
下心を押し隠してそう提案してみた。彼の眉が僅かに曇る。ナイフとフォークをゆっくりと優雅に置いた。
「……それは…昨日、約束した祐樹持ちのここの支払いの一泊を纏めて済まそうということか……?」
そう言えばそんな約束もしていたな…と今更ながら思い出す。
「いえ、そうではなくて。ただ、もう少しこの雰囲気を楽しみたいと思っただけです。何でしたら連泊分は別口でお支払いしますが…」
彼の表情から憂いの色が消える。
「それなら…私は構わない。私ももう少し居たいと思っていたから……土日が休みで本当に良かった」
食事を済ませて、部屋に戻る際に連泊の申し出を昨日と同じスタッフに言いに行った。ここのホテルの勤務シフトがどうなっているのか分からないが…昨日と同じ女性だった。にこやかに対応してくれたが、隣に立っていた教授の顔を一瞥して、笑顔が微妙に変化する。ほんの一瞬だけだったが。営業用の笑顔ではなく心からの笑顔になったような感じだった。
昨日、教授の顔を見た時はこんな笑顔は見せてなかったと断言出来る。多分、彼女も何らかの変化を感じたのだろう。そっと隣の教授を窺うが、彼は何も気付かなかったようだった。何となく面白くないような、しかし誇らしいような複雑な気分だった。
部屋の鍵を開けて、教授を先に部屋へと導く。ドアの鍵を閉めてから、彼の腕を掴んだ。教授が顔を覗き込む。祐樹の出方を待つかのような綺麗な瞳での凝視だったその表情は無垢という言葉が相応しい。彼を前にするとどうも調子が狂う。
「先ほど、サーモンを召し上がっていらした時にクリームが唇に付いていましたよね…あれを見てとてもそそられました。貴方の唇を私の白濁で汚したいという…」
祐樹の言う意味を敏い彼はたちまち理解したのだろう。頬が紅く染まった。と同時に困惑した表情を浮かべた。
「私は多分…祐樹を満足させることが出来ないと思う。下手だと思うから…」
まさかそういう返事だとは思わなかった。
これは婉曲な断り文句なのだろうか?それとも言葉通りの意味なのだろうか?だとすれば下手だと思う根拠は何かを猛烈に知りたくなった。彼の過去の男性が「下手だ」とでも言ったのだろうか?普通、舌技が拙くてもそれをストレートに言うデリカシーのない男性は少ないのではないかと思った。
「どうして下手だと思うのですか?」
しばらく、考えを巡らせるように瞳が揺らぐ。意を決したように薄桜色の唇が開いた。
「…・・・…したことが……ない……」
その言葉を聞いて下半身が反応してしまった。と、同時に彼の過去の男性はどうしてそれをしなかったのかということも気になった。普通は流れの中にその行為も含まれているハズだ。一回目ならともかく馴染んだ仲なら皆がするのではないだろうか?と思った。
「貴方の綺麗な唇の中に私を挿れて下さいませんか?抵抗があるなら…無理強いはしませんが」
欲情の余り声が掠れた。
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