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第九章 第12話
薫風こそ入って来ないが、爽やかな陽光が綺麗に磨かれた窓ガラスから入ってくる。
その光を浴びて眠る彼の顔をただじっと見ていた。安らかな寝息を乱すのが嫌だったので、腕枕はしたままだった。
彼が寝ながら少し身じろいだせいで、顔が良く見える位置で眠っている。手は祐樹のホテル備え付けの浴衣の胸元を握って安堵したような表情を浮かべている。お陰で腕は痺れていた。これまでに祐樹が付き合ったことのある人間には、男女問わず腕枕などしたこともなかったが。彼には喜んでしてやりたいと思う自分に少し戸惑う。が、このホテルに着いてからの彼の行動や表情が次第に変化して行き目を瞠るほどの変化を遂げた。まるでサナギが飛び切り美しい蝶になったように。
その変化をもたらしたのが祐樹だと思うと、ますます彼のことが知りたくなった。
祐樹が彼の性格を観察して得た結果は、感情を押し隠すのに慣れているということだった。また自分のことも話さないタイプだということも。そして嘘は基本的に吐かないが罪のない嘘なら吐く可能性があるということも分かった。意外と頑固なところもあり、本音を吐かすには理性を飛ばした時しかないということも。
やはり、雰囲気が変わったな…と思う。以前から祐樹好みの容姿はしていたが、ただ眠っているだけでも何か艶っぽい雰囲気を放っている。
教授はLAの病院に勤務していた過去を持つ。祐樹のような性癖を持つ人間が社会的にも大らかに認知されていると聞いている地域の中で生きてきたというのに、どうして彼の経験値が少ないのかが疑問だった。過去に2人しか付き合った人が居ないというのもにわかには信じがたいが…彼の物慣れない雰囲気からするとあながち嘘ではなさそうだ。彼の容姿なら過去の男性の数が次に0が付く数字でも驚かないというのに…。
しかも舌技はしたこともされたこともないという…。今度、じっくりと教えてあげたい…と思った。と、それは良いとして、何故両方の経験がないのだろうか?やはり病気のリスクか?とも思ったが、付けるべきモノを付けてすれば、感染のリスクはほぼ皆無だ。 そんなことくらいは彼も知っているだろうし、相手の男性だって知っているに違いないのに…。
しかも、携帯電話…。柏木先生からの電話が入れば、ホテルの交換手経由でこちらの部屋にかかってくるハズなので、それは問題ないが。教授がホテルの代表電話番号を教えたのも、柏木先生から再度電話がかかってきた時に、直接この部屋の電話だと祐樹が出てしまうのを危惧したせいだと推測した。
流石に同じホテルの同じ部屋に一緒に居ることは病院関係者に知られてはマズイ。救急救命室の阿部師長は薄々感付いているようだったが、彼女なら余計なことは絶対に言わないだろう。黙っていてくれるのは有り難いが彼女のことだ、恩返しは倍返しどころか十返しを要求される可能性が充分にある。どうせ返すのは祐樹の救急救命室での勤務かと思うとウンザリするが、それも仕方のないことだ。
そういえば、阿部士長と杉田弁護士は上手く行っているのか?と思う。二人とも恩人なので上手く行っては欲しいが、祐樹自身、彼らの恋愛に協力する余裕は全くない。良い年をした2人の大人だ、勝手にどうにかするだろう…多分。
それよりも、自分の恋愛…と思って思わず腕を動かしてしまった。祐樹は教授に惹かれているが、彼はどうなのだろうか?
身体まで許してくれたのだから、それに、手術の邪魔をする星野看護師の件が片付くまで祐樹の家に居たいとまで言ってくれたのだから嫌われてはいないと断言は出来る。
だが、愛してくれているのかどうかは分からない…と思うと暗澹たる気持ちになる。一言、「自分のことを愛してくれているか?」と聞けばいいのだが、その一言を発音するのは祐樹に取って生涯で初めてのことで…とてつもなく勇気が必要だ。
では、告白してみるか…とも思ったが、こちらも同じで…。
これだけ惹かれてしまった今、彼の冷たい眼差しで「愛していない」とか、「付き合うつもりはない」と言われると立ち直れそうになかった。
彼から告白してくれないか…と淡い希望を持ってしまう。
面倒くさいことになったな…とホロ苦い感触が胃の辺りからこみ上げる。と言ってもこのホロ苦さはバレンタインデーにナースが良くくれるゴディバのチョコレートのような極上の感触だったが…。
彼の目蓋が動く。そろそろ覚醒も近そうだ。と思った瞬間、長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳が祐樹を真っ直ぐに見詰めていた。彼の唇が動くのを見た瞬間、先ほどの白濁を滴らせた淫らで妖艶な枝垂桜のような唇が脳裏をフラッシュバックした。あの光景は一生忘れないだろうな…と思う。
「祐樹?」
怪訝な口調に我に返る。何も言わずに彼を見詰めていたのだから、不審に思うのも無理はない。眩しげに祐樹を見る眼差しも銀の粉を纏っているかのようだった。
「お早うございます。昼御飯を食べに行きましょうか?そろそろ昼御飯の時間も終ってしまいますし…」
「しかし、柏木先生の電話を待たなくては…。私が眠っている間にはかかって来なかったのだろう?」
「ええ、もし電話があったなら起こしていますよ。教授が告げられたのはこのホテルの代表番号です。クラブフロアのスタッフに、教授宛ての電話はクラブフロアのラウンジに回すようにと依頼すれば済むことです」
服を着替えて――こういう点がホテルは厄介だ。旅館なら浴衣でロビーはもちろん、その辺までの散歩も出来る。一回、彼と温泉に行ってみたいな…と、不意に思った――ラウンジに行くために廊下を歩いた。隣を歩く彼から目を離せない。ふと、不思議に思って少し歩調を緩めた。いつものようにしなやかに歩いているが、足の運びがいつもよりも遅い。もっとよく観察していると、歩き方も少し違う。原因に気付いて少し唇が綻んでしまった。
分からせないようにしているものの、明らかに昨日の余韻が残っているらしく腰の辺りを庇っている。が、その姿も物憂くて風情がある。
「どうした?」
「いえ、靴の中に何かが挟まっているような気がしましたので…」
「大丈夫か?」
真に受けたのか、眉を顰める教授の顔も匂い立つような控えめな色香を纏っている。
「ええ、しかし、柏木先生から電話を貰った時は驚きました。携帯番号…教えていなかったのですね?私の時は教えて下さったのに…。何故ですか?」
彼は少しの間無言だった。答えられない理由でもあるのかと訝しく思う。ラウンジに着いた時、彼がようやく口を開いた。
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