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第九章 第13話
「…私の不注意だった…」
薄い唇を心持ち噛んで悔やんだ表情でポツリと言う。立ち話も何なので、すっかり定番になってしまったテーブルに着く。教授が気に入っている大阪城が見える少し奥まった席だ。彼の腰を下ろす動作が普段よりもぎこちなく、昨夜からの余韻だと思うとこんな話をしていても、祐樹個人としては少し嬉しくなった。
「そうですね…教授は、患者さんが急変した時に対応する義務があります。責任者なのですから…。携帯の番号をイントラに載せておくことは基本だと思いますが…」
実は祐樹も病院内LANがどう表示されているのかは知らない。というのも、同じ医局の者同士――それがいけ好かない人物であっても――携帯番号を教えあうのは暗黙の了解だったので、わざわざパソコンからアクセスしたことがないのだ。
ちなみに、医局のパソコンは患者さんの個人情報も含まれているため、インターネットに接続出来る機械は限られている。万が一の情報漏洩を防ぐためだ。祐樹のデスクのパソコンは、インターネットを接続したかったので病院内LANを閲覧出来ないシステムを選んである。患者さんの情報などを打ち込む時は他のパソコンから使用しているのが現状だ。
「黒木准教授には教えてあったので、それで大丈夫かと思っていた…。アメリカ時代もそうだったのだが、私は職場に近い場所に住むように心がけたし…職場に居る時間も長いので…そうそう不自由はないと思っていた。職場から帰宅途中だけが連絡の取れない唯一の時間だと思っていたので…柏木先生にすら教えなかった。今回のことは想定外だった…」
彼は一旦言葉を切り、祐樹には不可解な可憐な微笑を浮かべた。
「アメリカ時代もそれで充分対応出来ていたので…柏木先生には余計な迷惑を掛けてしまった」
微笑の意味は分からなかったが、それ以外は心の底から反省している表情だった。憂いを帯びた彼の顔も新鮮だ…と思ってつい見惚れてしまう。が、我に返って彼の言葉を吟味する。
アメリカ時代にも彼はあんなに活躍していたのだから、患者さんの急変も有っただろう。いくら長岡先生や他の内科スタッフが優秀だとしても、外科でなければ対応出来ないケースも絶対に有ったハズだ。それなのに、彼が対応に失敗したという話しは全く報告されていない。病院と家とを往復するだけの生活を送っていたというのだろうか?
「アメリカ時代は、病院と家との往復だけだったのですか?」
愁眉を僅かに開き少し懐かしそうな顔をして彼は言った。
「同僚と呑みに行くことは有ったな…ただ、その同僚もモバイルフォンを持っていたので病院からの緊急連絡はそっちに入ったから…」
「モバイルフォン」の発音がとても滑らかだった。普段の会話では完璧な――と言っても関西圏のアクセントだが――日本語を話すので、彼がアメリカで生活をしていた片鱗は窺えない。彼の素顔がまた一つ覗けた気がして、少しだが嬉しかった。
ホテルスタッフはこちらから呼ばないと近寄っては来ないので、携帯ナシに彼が患者さんの急変に対処出来た点をじっくり聞くことにする。
「その同僚の方とは…どういう関係でした…か?」
聞くのが怖いと思ったのは祐樹に取って初めての経験だった。過去に関係が有った人間の過去は結構喜んで聞いていたものだったが。
教授の瞳に静かな炎が燃えているような気がした。
「ただの、友達だ…。悩みも散々聞いて貰った。………それに彼は筋金入りの女性好きだ」
「そうですか…。ではその方と呑みに行くくらいであとはご自宅に?」
「病院に居なければ、自宅に居たが?病院での地位が上がるにつけて収入も上がったので、殆どホテル並のサービスを誇るコンドミニアムに居たので不自由はなかった。階下にこちらで言うスーパーマーケットも入っていたからこのホテルのように代表番号に掛けてもらえれば、予め言って置けば病院からの電話の場合はスタッフが呼びに来てくれたし…」
「そういうシステムのマンションは日本にも有るみたいですね。何かの雑誌で読んだだけなのですが…」
「LAは映画の街としても知られているから、結構有名な映画監督を始め俳優や女優も同じ建物に住んでいると聞いたこともあるな…ただ、私は映画を観ないし、雑誌などは読む暇もなかったから建物の中ですれ違っていたかもしれないが、気付かなかったが」
自慢するような感じは全くせず、淡々と事実だけを述べている雰囲気だった。ただ、目を伏せているのが気になったが。
もしかして、彼の過去の恋人はそのコンドミニアムとやらに住んでいたのではないかと思った。そうでなければ携帯電話を使わずに緊急の電話に対処出来ないだろう。
それに、彼は祐樹が彼のマンションの部屋に入るのを頑なに拒んだことを思い出す。あれは、手酷く振られて――過去の恋人達はこの人の何が不満で振ったのか、はなはだ疑問だが――それが精神的外傷(トラウマ)になったのかも知れないな…と思う。自宅で同棲じみたことをして、振られた時の空虚感を持て余した経験があるのだろうか?同棲をしていたなら、相手の荷物なども増えるだろうし、去られた後に元恋人の持ち物を見るのは誰だって嫌だろうから。
祐樹は自分なりの結論に、暗澹たる気持ちになる。と同時に焦燥感に苛まれる。彼の過去を責める気持ちもなかったし、今の自分達の関係は「付き合っている」というほどのものではないと、祐樹は思うので…そんな資格もないと思った。
「一つ、お聞きして良いですか?」
「ああ?」
伏せていた瞳をゆっくりと祐樹の方に向ける。幾分気だるげな動作が匂い立つようだった。
「どちらから『付き合おう』と言ったのですか?」
彼の瞳が戸惑うように揺れた。数瞬の間を置いて、普通の速さの声で告げられた。
「相手からだが…?」
やはりと思う気持ちだった。早口でもゆっくりした口調でもないので、真偽のほどは定かではないが…。ただ、そうだろうな…とは思った。ただ、向こうから告白するとなるとかなり愛されていたのだろうとは思う。それなのに、彼の行為の初心な反応は矛盾している。告白されてすぐにコンドミニアムに入れたのだろうか?それも彼らしくないように思った、あまりにも無防備すぎるような気がした。彼の性格を考えると。
ますます彼のことが知りたくなる。が、祐樹には聞く資格があるのだろうか?と自分らしくもない躊躇の気持ちがわき上がった。
過去の恋愛沙汰は所詮遊びだったのだと思い知る。
取り敢えずは、彼が撤回しない限りは祐樹の部屋に数日は居てくれるだろう。教授から見れば貧相なマンションだろうが。2人だけの空間でそれとなく聞き出そうと決意は、した。実行出来るかどうかは心許無かったが。真実を知りたいが、知るのが怖いというのが本音だった。
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