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第九章 第14話

 だが、彼の過去の恋人達に未練を残しているようにも見えなかった。  どう聞くべきか…と、思案を巡らせる時間が必要だ。話に熱が入りここに来た本来の目的を忘れ去っていたことに気付く。自分の迂闊さがとことん悔やまれた。彼は疲労性貧血の病みあがりだったし、昨夜から今朝にかけても相当負担を掛けるだろうな…という行為をしてしまった。  クラブラウンジの昼食時間はもうすぐ終りだ。次は軽食と御菓子がメインの皿が並ぶ時間なので、早く栄養のあるものを食べさせないと…と思う。 「昼御飯にしましょうか?」  そう言うと彼は身体の力を抜くのが分かった。携帯電話の件で自分が責められていたと思ったのだろうか? 「ああ、実は空腹だった…」  また、この人は…と思う。「空腹の時は絶対言うこと」と祐樹が言っていたにも関わらず、自己申告をしないのだな…と。 「適当に見繕って持って来ましょう」 「いや、私も行く」  いくぶん辛そうにスプリングが絶妙の椅子から立ち上がる。そのゆっくりとした動作も底光りがするように艶めいていた。思わずじっと見詰める。 「どうした?早く行こう」  彼の声を聞いて、呼吸を再開した。それまでは無意識に息を止めて彼の動作を見ていたことに気付く。彼の瞳が不安そうな色を湛えている。笑ってみせると、彼の表情からは憂いの色が消える。 「なんでもありません。早く行かないと料理の皿を下げられてしまいますからね」  祐樹でも「手が込んでいて美味しそうだな」と思わせる料理の数々が妍を競っていた。  隣に立つ彼も白くしなやかな指で器用に料理を自分の皿に盛っている。その量を見て安堵した。祐樹が見てきた限り、彼は食が細いのではないか?と思っていた。以前教授室で1パックのサンドイッチを持て余していたので。  今日の彼は皿に少量ではあるが多彩な種類の料理を取り分けている。全部食べるとかなりの量になるだろう。 「あ、またお会いしましたね。学会準備ははかどっていますか?」  横に立った男性が話しかけてくる。顔を見る前に皿が目に入った。少し傾けると料理が落ちてしまうのではないか?と思わせるほどのてんこ盛りだった。顔を見ると、名前は忘れたが、祐樹の担当患者さんである鈴木さんの部下だった。 「ええ、お陰さまではかどっています」  嘘も方便とばかりに「学会準備のためのカンヅメです」と言ったのを真に受けたに違いない。まぁ、普通の人間であれば、男2人がホテルに「そういう目的」で泊りに来るとは想像を絶するハズだ。男女のカップルならともかく…。  祐樹の右側に居た鈴木さんの部下は、左隣に立っていた教授の顔を一目見て、驚いたように一瞬目を見開いた。教授の顔を不躾に眺める無礼に気付いたのか、しばらく凝視した後、ちらりちらりと彼の顔をそっと見ている。彼の顔から目が離せなくなったようだ。  祐樹もそうだったのだが。祐樹は特殊な性癖を持っているから仕方のないことかも知れない。ノーマルな男性が美人の顔を見れば、普通はその顔から目が離せなくなるのは普通の反応だろうと思う。  鈴木さんの部下は、祐樹の感触からして――同じ性癖を持った人間は何となく分かる自信が有るーー異性愛者だと思う。男性の顔を凝視するタイプには全く見えない。  初対面の時は、社長が入院している大学病院の教授に粗相のない挨拶をと心がけていたにせよ、こんなに分かりやすい反応をしなかった。それが、今回は…。  面白くないような、またノーマルな男性をも目が逸らせなくなるほどの吸引力のある魅力を与えたのが自分であることが誇らしいような複雑な気分になる。隣に居る教授はそんな視線に全く気付いていないようだった。 「ゆ…田中先生、この料理は卵だろうか?」  鈴木さんの部下には会釈しただけで料理を選んでいた彼が祐樹だけを見詰めて聞いた。 「詳しくはありませんが…見るところ卵料理みたいですね。でも何故ですか」 「好きなものを取っていったら、皿が一杯になってしまった…。卵なら食べないといけないかと思って…身体にも良いので…」 「もし、卵でなければ私が責任を持って頂きますので、最後の一品に是非」  教授は卵料理とおぼしきものをナイフとフォークで彼にしか出来ないような優雅な動作で摘み上げる。例の部下が息を飲んだのが分かった。  祐樹も自分の料理は全て選んでいたので、これ以上の長居は無用だと部下の人に会釈してそそくさと教授を促して席に戻った。 「あ、祐樹が言う通りやはり卵料理だ」  彼の優しげな顔が嬉しそうに綻んだ。彼は基本的に礼儀正しいので、食べている間は話しをしない。料理の味は全く感じずに彼の顔を見ているうちに食べ終わった。  過去の恋人のことを聞くことは今回、止めにしようと結論付ける。が、携帯電話の番号の謎だけは聞いて置きたい。聞くなら今だと思うのだが、なかなか口が動いてくれない。  スタッフが通りかかったのでアイスコーヒーを頼んだ。飲み物だけは、ゲストが取りに行っても良いし、スタッフも運んでくれる。食べ物の場合、基本はゲストが取りに行くが。  決意はしたが、咽喉が渇いて仕方がなかった。スタッフが運んでくれたアイスコーヒーのグラスを手づかみで飲み干すとお代わりを頼んだ。グラスに汗が付いている。掌から出る汗は精神的なものだ。2杯目も瞬く間に飲み干した。それでも咽喉の渇きは収まらない。3杯目を飲み干していると、彼が目を丸くして祐樹を見ている。それはそうだろう…アイスコーヒー3杯一気飲みは珍しいに違いない。祐樹も初めてだ。その驚いた顔に勇気付けられてやっと言葉に出せた。 「どうして私には携帯の番号を…それも貴方のほうから教えて下さったのですか?長岡先生も番号はご存知なのですよ…ね?」

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