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第九章 第16話

「香川教授、田中先生またのお越しを心からお待ちいたしております」  そうクラブフロアのデスクで精算が終った後に言われた。支払は彼のダイナーズのクレジッド・カードで行われたので先に彼の名前が呼ばれたのだろう。職業もこのフロアでは有る程度は漏れるのは仕方がない。 「有り難う」  教授がチラリと笑みを見せると、昨日とは違ったスタッフ――多分、勤務シフトのせいだろう――が頬を僅かに赤く染めた。そして、心持ち声を落として極めて事務的な口調で告げる。 「私どものホテルのモットーは『第二の我が家としての寛ぎを提供する』というものです。どうぞ、ご随意にお部屋をお使い下さい。こちらは芸能人や野球選手の方がプライベートにお使いになられますが、使用状況などが外部に漏れたことがないのが私どもの誇りでございます」  そういえばこのホテルは大阪で熱狂的なファンを持つ野球チームの定宿としても有名だったな…と思い出す。監督クラスは皆この辺りのランクやもっと上のスイートに宿泊しているとか…。『使用状況』と聞いて、やはり自分達が何をしていたのか露見していたのだな…と思う。彼女の口調は事務的だったがほんのり赤く染まった頬が内心を吐露している。  内心の動揺を押し隠し、教授を見た。彼は祐樹よりも聡いハズで、多分言外の言葉も理解しているはずだ。が、涼しい顔をしていた。 「有り難う。ここはとても落ち着きますから、また直ぐに必ずリフレッシュに来ます」  祐樹に向かって確認するように言った。思わず頷く。  エレベーターまでホテルマンに送って貰う。この階は専用の鍵がないとエレベーターは止まらない。チェックアウトをしてしまうと当然鍵を返さなければならないのでホテルマンが鍵を差し込みエレベーターが開くという仕組みだ。白い壁と茶色の柱と豪華な調度品がシックに纏められている廊下を歩いてホテルの正面玄関に向かった。 「来た時に聞いたのだが、その下のペルシャ絨毯は、値段が付かないほど高価なもので、100年もの間使用されているそうだ。あちこちの系列ホテルで使用されて今はここにあるそうだ」 「えっ?」  何気なく踏んでいる絨毯がそんなに高いものであったとは思いも寄らず、絶句して下を見た。祐樹が見る限りは何の変哲もない普通の絨毯に見えたのだが…そんな由緒正しくそしてそんな金銭価値があったとは。  まじまじと絨毯を見詰める祐樹が可笑しかったのか、教授は心底楽しそうに微笑んだ。 「そうは見えないだろう?私も聞くまでは知らなかったので何気なく踏んでいた。けれど聞いてからはそんな高価な物を踏んでいいのか正直迷った」 「教授の靴にはお似合いでしょうけど…私のような薄給の靴では絨毯が泣くような…」 「祐樹も来年からは、一人前の医師だ。それなりの給料は貰える。それに……私の下で働いてくれるのなら、『心臓外科医』として立派に名乗れる専門性の高い医師になれる。数年すれば、色々な病院からオファーが殺到する医師になれるだろう。そうなれば、靴くらい好きなものは買える」 「ええ、ご指導、ご鞭撻の程宜しくお願い致します」  そう言って頭を下げた。教授は何故か嬉しそうな笑顔を見せてくれる。 「祐樹のマンションに帰ろうか?」  少し怯えたように言う。どうしてそんな口調をするのか良く分からないが。大体泊めることは約束済みだったのに。 「ええ。帰りましょう。あのホテルで過ごしたら、余計に自分のマンションがみすぼらしく見えて、教授には相応しくないと思ってしまいますが…」 「いや、私は祐樹が一緒なら別にどこでも構わない」  この人はさらっと殺し文句を言うのだな…と思う。本人は自覚していないようだが。  JR米原行きは日曜の午後とあってか、意外に空いていた。四人掛けシートにちらほら客がいる程度だ。当然、隣り合って座る。祐樹がホテルに入る前に買った本は意外にかさばったので、上の網棚に置くことにする。横の席も前の席も人は居なかった。  奥のシートに教授を座らせた。彼は左手を肘掛ではなくシートに預けていた。回りを見回して誰も見ていないことを確認すると左指を祐樹の右の指で包んだ。  彼を抜いて指の戯れに応えてくれる。 「ホテルの人に気付かれてしまいましたね」 「ああ、私は別に構わないが、祐樹は嫌か?」  案じるような声だった。 「いえ、別に教授とならいいです」 「そうか……ではまた誘ってくれるか?」 「ええ、もちろんです。ただ口に出してではなく。以前にした約束通りに…だから、一瞬でもいいですから、廊下ですれ違った時に私のことを気にかけて下さいね」  何かを言いたげな風情だったが、彼の口からは何も言葉は出ず、ただ頷いた。左指で祐樹の右指を掴む力が強くなった。職場では雲の上の人だ。その人に少しでも注目されたいと思うのは…恋する者の我が儘だ  ホテルで気に入ったバスソルトを売店で購入した教授だった。祐樹の浴室でもそれを使ったので柑橘系のスパイシーな香りを纏っている。祐樹も次に入ったので同じ匂いを纏っているハズだ。すっかり習慣になってしまったので当たり前のように祐樹の狭いベッドに2人して入った。情欲ももちろんあるが、それよりも彼が安眠出来るようにそっと抱き締めた。 「意外だったな。晩御飯…とても美味しかった。格段に進歩を遂げていないか?お吸い物もそうだし、特に鮭とイクラと紫蘇の葉を使った散らし寿司はとても美味しかった」 「そう仰って頂いて嬉しいです。以前の鍋で懲りましたから、料理の本を買ってレシピを覚えました。それと、初心者用の料理の本を買って包丁の使い方や出汁の取り方も…」  暗闇で彼が身動きするのが分かった。そっと抱きついてくる。 「有り難う。そこまでしてくれるとは思わなかった」  声が不安定に揺れている。 「ホテルでは、洋食と中華でしたから…和食にしようと思ったのです。教授には少しでも食べて戴きたくて」 「とても美味しかった。でも無理しなくてもいいから…」 「無理なんかはしていません。私が忙しい時はコンビニ弁当で済ませます。栄養価は悪いですが…」 「その時は私が作るから…」  教授の手料理…彼ほど器用ならば、もっと美味しいものが出来るだろう。不味くても喜んで食べるが。 「楽しみにしていますよ」  祐樹もレシピを見て一瞬で覚えその通りに実行しただけだ。教授ならもっと早く覚えて器用に作ってくれるだろう、多分。しかし、味の問題ではなくて、彼が作ってくれると言ってくれたことが何より嬉しかった。

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