210 / 403
第九章 第18話
他人に不快感を与えないような身支度をする時間は職業柄早くなった。
無精ひげや、身なりに構わないドクターも多々居るが、祐樹は自分の身なりはきちんとするように心がけている。彼も初夏の日差しが相応しい爽やかな姿だった。ドアの前で靴を履き、祐樹が出勤準備するのを待って佇んでいる。
ホテルの部屋での淫らな花のような片鱗はどこにも見当たらない。
待たせるのも彼の業務に支障をきたしそうだ。祐樹は過去最短の三分で出勤準備を終えた。
「お待たせしました。では行きましょうか?」
そう言うと彼は少し眩しげな表情で祐樹を見ている。彼の望みかどうかは分からなかったが、幾分細い腰を引き寄せて顔を近寄せた。彼も顔を上に向け柔らかな瞳で祐樹を凝視している。笑みを返すと、ますます瞳に艶が加わる。唇の表面だけのキス。その最中は祐樹が教えた通りに彼の綺麗な瞳は閉じられる。長い睫毛が震えているのが新鮮だった。
――ああ、もっと時間が有ればいいのに…――と切実に思う。が、プライベートな時間はともかく仕事上では彼は祐樹のためには存在しない。彼の手術を待っている患者さんのものだ。
名残惜しげに唇を離す。不本意ながらも扉を開けて外に出た。お互い、出勤時は鞄など持たない。職業柄、必要なものは病院に全て揃っているし、下手に患者さんのデータが入ったパソコンなどを持ち歩くとなくした時は新聞沙汰にまで発展するのだから。もちろん、そうなれば教授会などの査問は避けられない。二人きりの空間から一歩出ると、何となく教授を先に歩かせてしまう。ずっとそういう世界に生きてきたので習慣になってしまっていた。
彼は日曜日の完全な休息が功を奏したのか颯爽とした足取りで歩いているが…やはり気になった。
「大丈夫ですか?何ならタクシーで…」
「いや、大丈夫だ。それに風がとても気持ちがいい」
そう言うと、歩調を緩めて祐樹の隣に並んで歩く。病院までは徒歩でもそんなにかからない。医師やナース、そして多種多様の医療従事者の目が、もしあれば…と祐樹は危惧したが、彼はそういうことには頓着しないような感じで並んで歩いている。彼は回りを見回して、そっと身体を寄せてきた。といっても、同性の同僚が並んで歩いていて不自然ではないくらいの距離だが。
「祐樹、私は今夜帰宅途中に自分の荷物…と言ってもパソコンと身の回りのものくらいだが…それを持って行ってもいいか?」
「ええ、もちろん。あ、私は手術の後、鈴木さんともう少し話し合ってみます。その後、救急救命室に呼ばれていますので帰りはいつになるか分からないです…、部屋にあるものは全て使って下さい。どこの引き出しを開けても構いませんから。そして、きちんと食事は摂って下さいね。冷蔵庫の中身はご自由に…。もし眠くなったら私の帰りを待たないで眠って下さい。食事と睡眠の件を破るなら、ご自宅に帰って頂きますからね」
「……分かった」
病院の建物が見えてきた。
「一緒に出勤というのは、やはりマズいですよね。教授の方がお忙しいのですから、先に行って下さい。私はこの喫茶店で適当に時間を潰して行きますよ」
阿部師長御用達の喫茶店の前でそう言った。教授は腕時計をちらりと見る。
「昨日の夜御飯のお礼や、祐樹が揃えてくれた料理道具のお礼にせめてコーヒーを奢る。それ位の時間なら有るから」
祐樹に向けられた彼の澄んだ瞳には抗えない。
「コーヒーを飲む時間だけですよ」
苦笑してドアを教授のために開けた。
コーヒーなら教授室でも飲めるだろうに…と思うが、離れがたい風情を見せる彼の姿は憂いを帯びて魅力的だった。時間が中途半端なせいか、店内には知った顔は居なかった。
教授も店内を見渡していたが、同じ結論に達したのだろう。祐樹に2人きりの時しか見せない極上の笑顔を浮かべた。こういう寛いだ笑顔になると、二つ上だということも、2人のポジションが天と地ほどかけ離れていることもつい忘れそうになる。
彼はコーヒーをブラックで飲んでいるが、いつもよりもその速度は遅い。その意図は明白で、思わず笑ってしまいそうになる。祐樹がポケットを探っていると灰皿をこちらに押しやってくれた。
ゆっくり飲んだとはいえ、所詮は200mlほどの液体だ。直ぐになくなる。空のコーヒーカップを未練げに見詰める教授に宣告するように言った。
「もう言って下さい。手術準備書、未だ出来ていないのでしょう?」
「出来ては…いないが、黒木准教授にあらましは伝えて病院は出た…。だから…祐樹が煙草を吸い終わるまで居ていいか?」
不安げに揺れる瞳につい負けてしまう。
「分かりました。では、この煙草が灰になるまで…」
一瞬、嬉しそうな顔をした彼だったが、急に真顔になり囁き声で言った。
「祐樹、頼みがある。教授室に来てくれるのは大歓迎なのだが…あの部屋では、あまり…色々なところには…触って欲しく…ない」
その小さな声は彼がアノ時に出す声と良く似ていた。思わず生唾を飲み込んだ。初夏の爽やかな日差しも何もかもが視界から消え、彼の顔と姿しか目に入らなくなる。
「どうして?」
こちらも低い声で囁くように聞いた。その声に煽られたように背中が僅かにしなる。
「触られたら、手術に集中出来なくなる…可能性が…」
「どの程度までは許してくれますか?」
抜群の集中力を持つ彼がそんなコトを言うとは想定外だったので、驚いて具体的なところまで聞いてしまう。
「鎖骨までなら、多分大丈夫…その下は絶対駄目だ」
「分かりました。では、そのように」
煙草も祐樹の肺に入ることなく燃え尽きていた。それを見た教授は財布から千円札を取り出し、祐樹に渡した。愛しさの余り、中指を彼の中指に絡ませた。長く冷たい指の感触も絶品だ。彼は困ったような、しかし嬉しそうな顔でただ、立っていた。
「では、もう行く」
決然とした顔をして、祐樹を店内に残し足早に立ち去った。二本目の煙草に火を点ける。
「全て見たわよ」
女性の低い声が頭上から降ってきて祐樹は驚愕した。火の点いた煙草をテーブルに落としてしまうくらい。
ともだちにシェアしよう!