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第九章 第19話

 喫茶店のテーブルが剥き出しのガラスで良かった・・・と現実逃避の余り頭の隅で考えていた。もうすっかり馴染んでしまったRホテルだとリネン張りだ。確実に焦がしてしまっていただろう・・・損害賠償を請求されるかどうかは別にして…。  疲労感のせいだろうか?少し、しゃがれている女性の声に恐る恐る振り向く。あの場面を全て見られるのは――特に病院関係者だと――とてもマズい。祐樹はともかく教授のポストを蹴落とそうとする可能性のある人間が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。まるで死にそうになった人間みたいだな…と少しは冷静さを取り戻して顔を見る。その瞬間、脱力した。  それにしても、祐樹も教授も店内を見回した上で入店している。祐樹も教授も職業柄か視力も良い上に集中する時はとことん集中するが、それでも回りの状況は無意識に目で追っている。手術の時など一箇所に集中は出来ないものなので。その2人のチェックをかいくぐってどうして「全部見られた」のだろうか?新規入店客も漏らさず視界の隅で確認していたというのに… 「阿部師長じゃないですか?お早うございます。イキナリ声をかけられてびっくりしましたよ」 「『お早うございます』じゃないわよ。あたしなんか三日寝てないんだからね…芸能人みたいな能天気な挨拶はしないで欲しいわ。ああ、その煙草、全部纏めて吸ってしまいたい気分…それにしても朝っぱらからお熱いコトで…」  断りの言葉を口にしないで、先ほどまで教授が座っていた椅子に疲れきった様子で座り込む。  煙草を纏めて吸ってみたい気分か…。そういえば、教授が着任する前後にはそういう気分になったことがあったな…と遥か昔のように思い出す。あれから色々有りすぎた。 「しかし、まさか職場関係の方に見られているとは…充分気を付けていたのですが…」  師長は祐樹の性癖を知っている。その上「全部見た」ということは、教授と指を絡めているところまでは見たということなのだろう。そうなると、2人の仲がどういうものであるかはどんなに鈍い人間でも分かるだろう。阿部師長なら絶対分かると断言したい。 「まだまだ修行不足のようね、田中先生は…。救急救命室の地獄の勤務を経験していながら…」  祐樹が差し出した煙草に火を点けて煙を深々と吸い込みながら、意味ありげににんまりと笑う。 「三日、ずっと救急救命室に詰め切りで、外の空気を吸いにここに来たのだけれども、流石に体力の限界を感じて…トイレでストンと意識が途切れたのよね。何分寝ていたのかは分からないけれど…。で、顔を洗ってトイレから出ようとしたら、どっかで見た、お似合いのカップルが談笑中。ついつい出て行く切っ掛けを失って、トイレのドアからこっそりと…」  そういえば一つのテーブルにコーヒーカップと水が置いてあり、人の居ないテーブルが有ったことを思い出した。あそこが阿部師長の座っていたところか…と今更ながら思いついた。しかし、トイレのドアまでチェックしていなかったのは不覚だった…と言っても普通の人間には思いも寄らない場所だったが。  三日寝ていないと言う阿部士長の言葉は額面通り、三日間、完全徹夜だったのだろう。いつもよりも更に疲れた顔をしている。職場に戻ると「救急救命室の女神」の顔に戻るのだろうが。 「ああ、人が血塗れで働いているというのに・・・すっかり相思相愛になったみたいじゃないの?貴方達ってば?こっちは寝る暇もまともな食事をする暇すらなかったのに…私も恋に溺れたいって思ったわよ。今朝の貴方達を見ていたら…」  多分、三日間連続で医師やナース達に指示を大声で怒鳴っていたのだろう。疲労で声が小さく掠れ気味なのが有り難い。いつもの彼女の声でこんなことを店内で叫ばれたらと思うと冷や汗が背中を伝う。だた、聞き捨てならない彼女の言葉だった。 「相思相愛に…見えましたか…?」  祐樹は彼を愛しているという自覚は有ったが。彼の気持ちが分からない今、恋愛沙汰には疎そうな阿部師長の言葉ですら確認したかった。 「見えたわよ?何自覚ないの?香川君…って言ったら失礼だわね。あの人のあんなに幸福そうな顔……ブランクはねあるもののさぁ…長い付き合いで初めて見たわよ。背中を向けて店を出て行く時も、背中で田中先生のこと意識しちゃってるんだから…。指まで絡めちゃって…あの時の教授の顔ったらホントに綺麗だったわよ」  そう断言されると祐樹の心は五月の空のように爽やかな気分になれた。  と同時に素朴な疑問もわく。 「どうして一部始終を御覧になっていたのですか?」 「トイレのドアを開けようとしたら、ちょうど2人が入って来たところだったの。前に2人して救急救命の助っ人をしてくれた時が有ったじゃない?あの時よりももっと親密そうな様子に脱力して、トイレに座り込んでツイ一部始終を見たってわけ…」 「教授の表情も以前とは違いましたか?」 「え?気付いてないの?鈍いなぁ…ゼンゼン違うじゃない?教授に着任した時から努めてポーカーフェイスをしているようだったけど…まぁ、医学生だった時も落ち着いた顔はしていた。まあ総じて人形みたいに綺麗だけど、取っ付き難い顔だわよね、彼。  今日の彼は見惚れるほど表情が豊かでとても幸せそうだったわよ。あれは恋する人の表情ね。  ああ、でも何であたしったら他人の恋路のことなんか語ってるんだろ?自分の恋も放っているというのに…」  そう言った瞬間、彼女の頬に僅かながら楽しそうな笑みが浮かぶ。どうやら杉田先生とは悪い方向には行っていないのだな…と思う。 「杉田弁護士は、お元気ですか?」 「逢ってないけど…元気なんじゃないかしら?前、お休みの時に百合の花束が届いた」 「それは良かったですね…」  何気なく相槌を打つと、鬼のような顔で睨まれた。どうしてこんな表情をされるのだろう? 「お互い、他言しないわよね…まあ、そっちの方が噂になった時ダメージが大きそうだから当然か…。杉田先生は百合の花だけで30本の花束を贈って来て、部屋中あの香りでむせ返りそうになってしまって…おしまいには気分が悪くなっちゃった…あれは一種の暴力だわね」  そう言いながらもどことなく幸せそうだった。確かに百合の花は匂いがキツい。それを30本も贈る方も贈るほうだ。薔薇ならともかく…しかし、阿部師長はまんざらでもなさそうな顔をしている。それなりには上手く行っているのだろう、きっと。 「あ、また呼び出し…」  彼女が携帯を白衣のポケットから取り出すのを見て、彼女のテーブルの伝票も一緒に支払――と言っても、教授の置いて行った千円札だ――を済ませて病院に一緒に向かった。  植え込みのツツジの花が綺麗だな…と祐樹らしくないことを考えていた。

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